4月10日 (土)  済州島2010 その2 ハルマンモッ

前夜祭翌日の4月3日、今年は、4.3平和公園で催される慰霊式には参加せず、海軍ペリポート建設予定地の江汀(カンジョン)村を訪ねることにした。
カンジョンという響きは幼い頃からずいぶん耳に親しんでいる。父の生まれ故郷は道順(トスン)村、その隣のカンジョン村は母の生まれ故郷だとばかり思い込んでいた。確かめるために、カンジョン村に向かう車の中から国際電話で長兄に確かめてみると、母の故郷はナムウォンのテフン村だとのこと。カンジョン村は、祖父母と他の兄弟が先に日本に渡って行ったため、残された父が数年間預けられた親戚の村だという。
済州島の南、西帰浦(ソギッポ)の隣に位置するカンジョン村は美しい海岸線に恵まれた風光明媚な半農半漁の村であり、水が貴重な済州島にありながらその名カンジョン(江汀)はここの名水に由来するとのことだ。陸にはみかんとにんにく畑がのどかに広がり、畑の向こうにはハルラ山が間近に見える。ゆっくりと溶岩が海に流れ込んだために、奇妙な形をした岩たちが敷き詰められた海岸は、済州島でもかなり珍しい風景だそうだ。その向こうにはエメラルドグリーンの海が凪ぎいていた。
父は、毎日こんな風景を見ながら暮らしてたのか...。そう思うと、鼻の中がツンとした。母は私が18歳の時に他界し、日本には母の思い出が多すぎて辛いと言って、父はひとり済州島に帰って西帰浦に家を借りて暮らしていた。そのうち再婚もして、父はきっととても幸せなはずだったのに、病気で入退院を繰り返すようになった父を、長兄が無理矢理日本に連れ戻した。
故郷の済州島で死にたいと言っていた父は、どんなに子どもたちを恨んだことだろう。そんなことを思いながら海岸を歩いていると、ハルマンモッという美しい入り江が目に飛び込んできた。デジャビューというのか、一瞬軽いめまいをおぼえる。母に連れられてはじめて済州島を訪れたのは、6歳の夏だった。その時の母の故郷の匂いも風景も、かなり鮮明に憶えている。だが、あの時訪れたのはカンジョン村ではなく、テフン村だったはず...。でも、目の前にある風景は、子どもの頃に遊んだ記憶の中の映像とぴったり重なる。その途端、6歳の夏の思い出が蘇ってきて、その場を動けなくなってしまった。

この美しい海辺の村に、なぜ人を殺すための基地を作らなければならないのか。長い長い年月をかけて作られた自然の芸術のようなこの海をコンクリートで埋め尽くしてしまったら、もう二度と復元することはできないのに...。理不尽さと人間の愚かさに、怒りと悲しみがこみ上げてくる。住民達の基地建設反対の意思に反して、基地建設を阻止するのはかなりむずかしいようだ。でも、私も基地建設反対の意思と願いを表していくつもりだ。
遠からず、またこの村を訪れようと思う。

*写真はハルマンモッ。ハルマンは済州島の方言でおばあさんのこと。モッは泉。子宮の形をした入り江に海水が流れ込み、陸の方からは湧き水が流れ出る、とても珍しい入り江。ここで沐浴をするとかならず妊娠するという言い伝えがある。夏は子どもたちの絶好の遊び場。

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