5月2日 (月)  宮城被災地ツアー その2

4月23日午前5時前、タウンエースに音響機材、楽器、食料、支援物資等、身動きできないほどの荷物を積み込んで、オフィスとんがらしを出発(積みきれない荷物は急遽宅急便で送ることに)。
メンバーは、ギターの矢野敏広さん、清水能親(大清水)さん、清水康正(小清水)さん、それから私の4人。運転は大清水さん。前日数時間仮眠を取っただけで、結局目的地の志津川まで一人で運転をしてくれた。
前日の晩、toyoさんがお弁当とお菓子、果物等を小清水さんに届けてくれて、その気配りにお腹も心も満たされる。toyoさん、ありがとう。
午前11時過ぎに南三陸町に入る。入谷地区を過ぎたあたりから里の様子は一変。山の中にある徹さんの家に入っていく目印のポンプ小屋は流され、秋目川に架かる橋は辛うじて無事だが、橋を乗り越えたと思われる大きな船の残骸が無惨に横たわっている。私たちはあっけに取られ、ポンプ小屋跡を通り越して、そのまま志津川の町の方まで降りて行くことにした。テレビの画面で繰り返し流された光景が現実に目の前に迫り、言葉を失ってしまった。去年、貝原浩さんの絵画展を開催した「夢プラザ」も、よくソフトクリームを買いに行ったミニストップも、お土産の海産物を買いに行った鮮魚店も、跡形もなくなっている。
11時半、徹さんの家に到着。抱き合って無事を喜び合う。徹さんは妻のあっちゃんとコルティッホ・ソーナイという養豚場を営んでいる。小学校6年生ののばらと3年生のはるかの四人家族。昨年「フォルティシモな豚飼い」という本を出版し、地震の数日前にその続編を入稿したばかりだった。カメラマンでもある徹さんは、地震後の志津川を撮り続けていて、その写真は福音館書店の「母の友」8月号に載る予定だ。
徹さんの家は、数日前に電気が復旧したばかり。元々テレビもなく、沢の水を引いて、薪ストーブで暖をとる暮らしをしている杉田家にとって、電気のない暮らしは、さほど不自由ではなかったそうだ。
昼食をご馳走になり、一休みをしてからこの日のコンサート会場の歌津中学校へ出発。まるで戦争の焼け跡のような志津川と歌津の町を通り、午後2時頃中学校に到着すると、熊のような風貌の頭領・佐藤与一さんが満面の笑顔で迎えてくれた。杉田邸をはじめ、与一さんが建てた家は津波に流された家をのぞいて、びくともしなかったそうだ。当の与一さんの家は津波で流され、今は作業場で娘と息子と三人で暮らしている。避難所になっている歌津中学校では世話役(顔役?)として大活躍をしていて、私のコンサートも是非、という与一さんの熱意で実現した。
機材を二階の体育館に運び入れて、セッティング開始。舞台の上には救援物資などが積んであり、体育館の床には青いマットで区切られた四畳から六畳くらいのスペースに数人ずつの家族が休んでいる。後ろの方では、ボランティアで歌いに来た若いミュージシャンが子供たちと歌いながら遊んでいる。山元町で被災したれいままも駆けつけてくれて、お茶やお菓子を配るのを手伝ってくれた。
4時からコンサート開始。まず与一さんが挨拶と私の紹介をしてくれて、あっちゃんのリクエストの「あなたが笑っていると」から始める。会場にたどり着いても、まるで地獄絵図のような町の映像が目に焼き付いて離れない。心がこんなにも乱れ、ざわついたままでも、歌は歌えるのだと妙に冷静な自分がいる。震災後テレビや報道で繰り返される「がんばれ」という言葉は私には使えない。今できるのは、一緒に痛み、悲しみ、泣き、笑うこと。
歌い終わったあと、何人もの方がそばに来て手を握ってくださり、胸がいっぱいになる。明日も全身全霊で歌おう。
その晩は、徹さんとあっちゃんが信じられないようなご馳走を用意してくれて、みんなで生きてることの喜びを分かち合った。前日、車の中でも眠る事ができなくて完徹をしてしまった私は、早々に沈没。零時を過ぎても止まない宴の子守唄を聴きながら深い眠りについた。