5月4日 (水)  宮城被災地ツアー その4

山道を抜けて歌津、志津川の町を通って徹さんの家へと急ぐ。日が暮れかかった瓦礫の町は、一層不気味で醜くく映る。津波に飲み込まれて家を失った方々、命を落とした方々に思いを馳せる一方で、正直これが文明が作り出した物の成れの果ての姿なのかという印象を持ってしまった。
夕方6時半頃到着すると、戸倉の竹男さん、与一さんはじめ、コンサートでいつもなじみの志津川の仲間達が私たちの帰りを待っていてくれた。この日をとても楽しみにしてくれていたらしい。集まった6人のうち、3人が家を失った。あっちゃんと徹さんが用意してくれたご馳走をいただきながら、ひとりずつの体験談を聞かせてもらう。
地震から津波が来るまでの25分間が運命の分かれ道だったという。取る物も取らずに、後ろも振り返らずに逃げた者は助かり、第一波の後安心して家に戻った者はその後の大きな波に飲まれてしまったという。オレたちはたまたま運が良かったんだという与一さん。あんなに大勢の犠牲者が出たのに、知り合いに一人も亡くなった方がいなかったというのは、なんという不思議だろうか。それぞれの話を聞きながら、なんとか生き延びてくれたことに心から感謝する。
地震が天災なのはあきらかだとして、今回の津波の被害は人災でもあるということ。この日集まった皆が、歴史的に幾度となく津波被害を受けてきたこの土地で、津波対策のずさんさを改善させられなかったことを悔やんだ。そして、原発事故に対する怒りを口にした。地震と津波だけだったなら、復興するのにたとえどんなに時間がかかっても、故郷の地で生きて行く希望が持てたのに。このままでは放射能に海も土地も空気も汚されて取り返しがつかなくなってしまうだろうと。
そんな深刻な話をしながらも、地震以来はじめてお酒を口にする人もいて、飲めや、歌えやのにぎやかな宴となった。例によって私は先に床に入る。おじさんたちはどうしてあんなに元気なのだろう。

25日朝10時頃、荷支度をして徹さんの家を出発。今日はのばらとはるかの通う志津川小学校で歌う。地震の起きた時間、のばらとはるかはお父さんたちが迎えにくるのを待っていた(杉田家から学校まで徒歩で1時間以上かかる)。徹さんとあっちゃんは豚肉の配達から一旦家に戻って、子供たちのお迎えに出かけようとした時に地震が起きた。地割れのため車が通れないので山道をかきわけて山を下りる途中、近所の人の情報で小学校は無事と聞き、一晩を親子別々に過ごしたそうだ。子供たちは両親の安否を確認できずどんなに不安だっただろうか。志津川小学校では、1年生がひとり亡くなったそうだ。
避難所になっている体育館で歌うか、プレイルームの小さなスペースで歌うか迷った末、プレイルームで歌うことにした。校舎ではまだ電気も水道も止まっていたので、学校は授業を始められずにいたが、この日は青空教室があって子供たちが登校するので、その下校時間に合わせてコンサートの時間を設定した。あっちゃんがチラシをたくさん作って宣伝してくれる。
結果、開演時間の11時半になってもお客さまはほとんど来ない。ああ、ここに来てください、ではなくて、私の方から行くべきだったと悔やんでも後の祭りである。ようやく10名足らずの方が集まってくれて、5分くらい遅れて開演。聴きにきてくださった方に申し訳なく、またありがたい気持ちで、精一杯歌う。お客さまも、私と矢野さんを盛り立てようと一生懸命耳を澄まし、拍手をしてくれる。そのうちに、演奏する私たちも観客も、そんなことはもうどうでも良くなってきて、音楽の響きの中で心がひとつにつながっていくような感覚を楽しんだ。最後の歌を歌い終わった後も拍手は鳴り止まず、2曲もアンコールで歌う。

この日初めて歌った歌。

いつも何度でも
作詞:覚和歌子、作曲:木村弓

呼んでいる 胸のどこか奥で
いつも心躍る 夢を見たい

かなしみは 数えきれないけれど
その向こうできっと あなたに会える

繰り返すあやまちの そのたび ひとは
ただ青い空の 青さを知る
果てしなく 道は続いて見えるけれど
この両手は 光を抱ける

さよならのときの 静かな胸
ゼロになるからだが 耳をすませる

生きている不思議 死んでいく不思議
花も風も街も みんなおなじ

*
la la lan lan la lan la-la-la-la
lan lan la lan la-la-la-la
lan lan la la lan la la
la lan la-la-la-la lan

o ho ho ho ho ho ho-ho-ho-ho
lun lun lu lu-lu-lu-lu-lu-lu
lu-lu-lu-lu lun lu lu lu lun
lu lu lu___________

呼んでいる 胸のどこか奥で
いつも何度でも 夢を描こう

かなしみの数を 言い尽くすより
同じくちびるで そっとうたおう

閉じていく思い出の そのなかにいつも
忘れたくない ささやきを聞く
こなごなに砕かれた 鏡の上にも
新しい景色が 映される

はじまりの朝の 静かな窓
ゼロになるからだ 充たされてゆけ

海の彼方には もう探さない
輝くものは いつもここに
わたしのなかに みつけられたから

*(繰り返し)

終演後、気仙沼の鈴木さんが出発前に駆けつけてくれて、気仙沼の「男山酒造」から預かった日本酒を届けてくれる。二代目の若旦那からの差し入れだ。被災地から救援物資をいただいてどうする。
12時半前、鈴木さん、徹さん、あっちゃん、のばら、はるかと別れて、竹男さんの車の先導で、登米に向かう。次の会場の登米公民館は志津川で被災した方たちの避難所になっている。避難所の世話人になっている竹男さんの友人が、歌津でのコンサートの話を聞いて、是非登米でもと声をかけてくださった。
避難所のみなさんがちょうどお昼ご飯の後休んでいるところに機材を運び入れ、恐縮しながら素早くサウンドチェックを済ませる。機材搬入、セッティング、チェックまで最短30分。もちろん地元の方の協力があってこそだが、ツアー3日目ともなると慣れたものだ。W清水さんの働きぶりに脱帽!
サウンドチェックの後身支度のために立ち寄ったトイレで、「いぢょんみさんですね!」と若い女性に声をかけられる。志津川で何度も私のコンサートを聴きいてくれた方だった。私の歌をとても楽しみにしてくれていたその女性は、祖父母を津波で亡くされたと淡々と話してくださった。
午後2時過ぎ開演。公民館の会場は、歌津中学校の体育館と同じくらいのスペースで、舞台からお客さまを見下ろすかたちで歌うことになり、会場の隅々まで見渡すことができた。ゆっくりくつろぎながら聴いてくださいね、と促しても、後ろの方でも正座して聴いている方がいる。はじめうなだれて聴いていた方も、最後には顔をあげて一緒に口ずさんだりしてくれる。
みなさん、本当にありがとうございました。
機材片付けから積み込みまで15分。さすが!午後3時半前、komorebiさんがたくさん作って送ってくれたキャンディーや小さなおもちゃのパック(ヤノピーのシール、歌詞のシール付きのとても手のこんだもの)の残りを竹男さんに預けて、登米を後にする。
途中遅い昼食を済ませて、夕方5時頃石巻に到着。ファミレスの駐車場でオーチャン夫妻と再会。オーチャンとはここ数年、仙台の「とっておきの音楽祭」と、大館の「花岡事件慰霊式」で再会するのが恒例になっている。恰幅が良かった身体は一回り小さくなって顔もやつれてしまった。オーチャンもとしえさんもともあれ無事で良かった。地元の中里小学校の子供たちに渡すお菓子を託して、石巻を出発。
帰りは小清水さんが東京まで運転してくれる。積んで行った荷物はほとんどなくなって、後部座席も楽になった。あっちゃんが持たせてくれたサンドイッチとお菓子と飲み物でお腹を満たしながら、途中トイレ休憩と給油の他は休みもせずに、東京まで一気に走る。
夜10時過ぎに東京に到着。
みなさんお疲れさまでした!



3月11日以前と以降では、この世界はまるで違ってしまったような気がしています。私たちは、次の世代にどんな世界を手渡すことができるのか、自分が試されていると感じます。大きな力の前で私はとってもちっぽけな存在だけど、私ができる小さなことを精一杯やらなければ...精一杯歌い続けようと思います。

今回の大震災、原発事故の後、山尾三省さんの「遺言」をずっと思い出していました。
ここにご紹介します。


ー子供達への遺言・妻への遺言ー
      
       山尾 三省

「僕は父母から遺言状らしいものをもらったことがないので、ここにこういう形で、子供達と妻に向けてそれを書けるということが、大変うれしいのです。というのは、ぼくの現状は末期ガンで、何かの奇跡が起こらない限りは、2、3ヶ月の内に確実にこの世を去って行くことになっているからです。
そのような立場から、子供達および妻、つまり自分の最も愛する者達へ最後のメッセージを送るということになると、それは同時に自分の人生を締めくくることでもありますから、大変身が引き締まります。

 まず第一の遺言は、僕の生まれ故郷の、東京・神田川の水を、もう一度飲める水に再生したい、ということです。神田川といえば、JRお茶の水駅下を流れるあのどぶ川ですが、あの川の水がもう一度飲める川の水に再生された時には、劫初に未来が戻り、文明が再生の希望をつかんだ時であると思います。

 これはむろんぼくの個人的な願いですが、やがて東京に出て行くやもしれぬ子供達には、父の遺言としてしっかり覚えていてほしいと思います。

 第二の遺言は、とても平凡なことですが、やはりこの世界から原発および同様のエネルギー出力装置をすっかり取り外してほしいということです。

自分達の手で作った手に負える発電装置で、すべての電力がまかなえることが、これからの現実的な幸福の第一条件であると、ぼくは考えるからです。

 遺言の第三は、この頃のぼくが、一種の呪文のようにして、心の中で唱えているものです。その呪文は次のようなものです。
 南無浄瑠璃光・われらの人の内なる薬師如来。
 われらの日本国憲法の第9条をして、世界の全ての国々の憲法第9条に組み込まさせ給え。武力と戦争の永久放棄をして、すべての国々のすべて人々の暮らしの基礎となさしめ給え。

 以上三つの遺言は、特別に妻にあてられたものでなくても、子供達にあてられたものでなくてもよいと思われるかもしれませんが、そんなことはけっしてありません。
 

ぼくが世界を愛すれば愛するほど、それは直接的には妻を愛し、子供達を愛することなのですから、その願い(遺言)は、どこまでも深く、強く彼女達・彼ら達に伝えられずにはおれないのです。
 つまり自分の本当の願いを伝えるということは、自分は本当にあなたたちを愛しているよ、と伝えることでもあるのですね。

 死が近づくに従って、どんどんはっきりしてきてることですが、ぼくは本当にあなた達を愛し、世界を愛しています。けれども、だからといって、この三つの遺言にあなたがたが責任を感じることも、負担を感じる必要もありません。

あなた達はあなた達のやり方で世界を愛すればよいのです。市民運動も悪くないけど、もっともっと豊かな”個人運動”があることを、ぼくたちは知ってるよね。その個人運動のひとつの形としてぼくは死んでいくわけですから。」


最後に。
矢野さん、清水能親さん、清水康正さん、本当にお疲れ様でした。
今回のツアーにご協力くださったたくさんのみなさん、ありがとうございました。
南三陸町、気仙沼でお世話になったみなさん、ありがとうございました。
五カ所の会場で歌を聴いてくださったみなさん、ありがとうございました。
心から感謝します。
被災されたみなさんが安心して過ごせるようになりますように、お祈りします。
原発事故によって、故郷を追われた方たちに心の平安が訪れますようにお祈りします。