「朝露」と 金敏基さんのこと 李政美 |
「朝露」という歌が、日本でたくさんの人々に愛され歌われつづけてきたことを、ほとんどの韓国の人たちは知らないだろう。 私がこの歌にはじめて出会ったのは、19歳の時だった。1980年の光州事件の前後、日本では韓国の民主化運動に連帯する運動が盛り上がり、週に何度もどこかで集会やデモが行われていた。音楽大学に通っていた私も、友人に誘われて集会に参加するうちに、壇上にあがって歌うようになっていた。集会では、「朝露」や「金冠のイエス」、「ソウルへ行く道」などの金敏基さんの歌をはじめ、その当時韓国で歌われていた抵抗歌や、在日韓国人政治犯の家族がつくった歌などを歌った。やがて運動は下火になり、音大を卒業する頃には、集会で歌うこともほとんどなくなっていた。 '87年に「金敏基」という本が日本で翻訳、出版されるのに合わせて、金敏基さんの歌を集めたカセットテープをつくることになった。そのテープには、11曲が収められている(新幹社刊、絶版)。 金敏基さんにはじめて東京でお会いしたのはいつだっただろうか。まだ幼かった娘とふたりで暮らすようになったばかりの頃だから、'90年か'91年のことだったかもしれない。その頃金敏基さんは新しいミュージカルの構想中で、私に韓国へ来て歌うつもりはないか、という話しをされたような気がする。(でくの坊で、歌を歌うしか能がない私がミュージカルなどできようもないが)人前で歌うことをあきらめようと思っていた私は、あっさりその話しを断ってしまった。 それから数年後、私は「屋久島」に暮らす詩人山尾三省さんと彼の詩「祈り」に出会い、その詩に曲をつけたのをきっかけに、また歌を歌いはじめるようになる。たったひとつの歌を歌うことからはじまって、今こうして日本列島の津々浦々に出かけ、たくさんの人と出会い、共感できるようになるとは、その頃は夢にも思っていなかった。 昨年の5月、山尾三省さんの「ここで暮らす楽しみ」という本が韓国で出版されることになり、その本の中で私に三省さんとの思い出を書いて欲しいという依頼がきた。そのご縁で、6月にソウルにパンソリの勉強に行った折りに、その本を翻訳されたイバン先生に招かれ、はじめて原州を訪れることになる。イバン先生の知り合いの方や生活共同組合の方々との食事会に、金敏基さんもいらっしゃるというので、どんなに驚いたことか。食事会の後、皆でチャンイルスン先生のお兄さまの別荘で、語り、歌い明かした。はじめてお会いしてから10数年後に、ようやく金敏基さんと「出会う」ことができたような気がした。そして、私の歌のふたつの原点である「朝露」と「祈り」が、原州の地で結ばれたことに、不思議さと感謝の気持ちでいっぱいになったのだった。 山尾三省さんは、2001年8月、癌のために亡くなられた。去年、残された夫人の春美さんにお会いした時、三省さんが亡くなられた後、毎日車で町に仕事に行く道すがら、私がライブで歌った「朝露」のテープをすり切れるほど聞きながら泣いたという話しをしてくれた。その歌に助けられたとも。 真にすばらしい歌は、人の心をなぐさめ、生きる勇気を与える力を持っている。そんな歌が世の中にどれほどあるだろうか。私がコンサートで「朝露」を歌う時、この歌が誰によっていつの時代につくられ、どんな状況で人々に歌われてきたかということを説明するまでもなく、歌った途端に人々の心の中に深く染みこんで行くのをいつも感じる。きっと「朝露」は、何年、何百年経っても、民族や国境を越えて人々に歌い継がれて行くだろう。そんな歌に出会えたことに心から感謝する。 そして、今日、ここ原州で歌うことは、私にとってまたひとつの出発点になるだろう。 |
(2003年12月 韓国・原州コンサートのパンフレットより) | |
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Violeta Parra |
パラは、チリのヌエバ・カンシオン運動の先駆者でもある。1952年頃から民謡の研究を始め、ギターを弾きながら歌を歌い、チリ各地の農村や鉱山地帯を歩き回り、うずもれていたたくさんの歌を拾い集めた。そうした歌の中には、力をもたない民衆の生活からにじみ出るような切実な訴えの歌があり、その訴えをビオレータは身をもって知ることとなった。1964年、ビオレータは自分の家を「パラ家のペーニャ」(ペーニャとはライブハウスのようなもの)とし、そこに集う歌い手たちが民衆の声「ヌエバ・カンシオン」を歌った。そのペーニャに集う一人にビクトル・ハラ(1938〜1973)がいた。彼はヌエバ・カンシオンの運動の中心的担い手となる。1970年、人民連合が民衆の支持を得て選挙に勝利し、アジェンデ政権が誕生し、民衆のためのアジェンデの政策にパラは熱心に協力することになる。しかし、チリでは1973年にアジェンデ政権は悲劇的な結末を迎えた。軍部によるクーデターが起こり、アジェンデ大統領は殺害され軍部による独裁政治が始まった。このとき、ビクトル・ハラも捕まり、
彼は捕まった仲間を歌で励まそうとし、歌いながら殺された。他にも多くの歌い手が国外追放になった。 Violeta Parraのサイトへ(スペイン語/「Gracias a la Vida」が聴けます) |
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矢野敏広 |
(やのとしひろ) ギタリスト。中学時代にフォークソングの洗礼を受け、高校卒業後上京、ライブハウスを中心に活動を始める。1980年、朴保(パクポオ)&切狂言(きりきょうげん)に参加。ギタリスト・マンドリン奏者として李政美、朴保他多くのアーティストをサポート。日本各地、韓国でライブ活動を行っている。 2012年、ボーカルのnoburoと、グループ「うまかしゅう」を結成、CD「きらめく星座のように」を発表。2013年には、韓国の国民的歌手・張思翼の日本公演でブルースギタリストとしての真骨頂を発揮、絶賛を博す。最近は昭和歌謡を題材に、ソロ・ ボーカルとしても活動中。 北海道・網走市に居住。 |
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HALMA GEN photo by naro |
(はるまげん) キーボード、パーカッション奏者。1959年北海道札幌に生まれる。1979年、現在は奏琴奏者の深草アキ氏とロックバンド「観世音」を結成。1981年、手話劇『異説酒呑童子』でハンガリーや日本など20都市で公演。1983年、ロックバンド「翔宇」を結成。韓国の政治犯を題材にした戯曲『鳥は飛んでいるか』の音楽制作に参加。その後、数々のアーティストとの音楽活動を経て、1986年、ロックバンドTOM☆CATで演奏活動。1991年、ロックバンドTHE
JOINTでキングレコードよりデビュー。1993年、ロックバンドHEAVENのツアー、レコーディングに参加。1994年、ロックバンドSOUND APARTMENTのアルバム制作に参加。1995年、NHKドラマ『蔵』の音楽制作にアレンジャーとして参加、作曲者の深草アキ氏のサポートをする。現在、SOUND
APARTMENTや李政美、趙 博のキーボーディスト、西アフリカの太鼓ジャンベとのDUO「ハルマニア」で活躍中。2006年には神戸と東京の“遠距離ユニット”「はるまきちまき」を結成。ピュアな歌声でオリジナルやカバー曲を歌うおーまきちまきと共に、ピアノ、あるいはダブルアコーディオンでシンプルで楽しいコンサートを全国各地で展開している。 HALMA GENのブログ「PIANO弾きHALMA GENの旅日記」へ |
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佐久間順平 photo by naro |
(さくまじゅんぺい) 早稲田大学在学中よりシンガーソングライターとしてライブ活動をおこなう。大学卒業後、高田渡等と「ヒルトップ・ストリングスバンド」結成。ソロシンガーとして活動する中、高田渡、なぎらけんいち、友部正人、中川五郎、森田童子等のレコーディングやステージを共にする。1978年より、さとう宗幸コンサート、スタジオでのアレンジ、プレイ、コンポーザーを担当。TBSラジオドラマ「アドルフに告ぐ」「明日の風」「遥かなるズリ山」等で音楽担当。この3作品で3年連続芸術選奨作品賞を受賞。1994年、永六輔の詞「はるなつあきふゆ」に作曲(唄/デュークエイセス)。95年、永六輔の詞「卒業写真」に作曲。現在、さとう宗幸、小室等、中島啓江、ヤドランカ、しゅうさえこ、李政美等のステージ及びスタジオワークに参加。その他、ラジオ、テレビ、映画、ビデオ等の音楽製作を続ける。2004年夏、待望のファーストアルバム『最初の花』リリース 公式HPへ |
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SELI(芹澤薫樹) |
(せりざわしげき) 1975年、静岡県生まれ。大学よりベースを始め、在学中よりプロ活動を開始する。あくまで演奏家ではありながらも演奏以外のことに幅広く興味を持ち、作編曲から音響エンジニア
リングまでこなす異色のベーシスト。現在までに、録音エンジニアとして大橋純子、浜崎貴司、ベーシストとして李政美、navy & ivory、ベーシスト兼エンジニアとして井上昌己、TAROかまやつなど、かかわり方は様々に多数のアーティストをサポートしている。 HP「せりさいと」へ |
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竹田裕美子 photo by yama |
(たけだゆみこ) 1972年「Early Times Strings Band」に参加。ステージデビューは「五つの赤い風船、解散コンサート」だった。以来、小室等、白鳥英美子、加藤登紀子、伊藤多喜雄、しゅうさえこ、南正人、李政美など、多くのアーティストのステージ及びスタジオワークを幅広くサポートしている。「五つの赤い風船」が解散以来28年ぶりに再結成、リリースされたアルバム「五つの赤い風船2000」にも参加。 |
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向島ゆり子 |
(むこうじまゆりこ) 3才よりバイオリン、ピアノを学び、学生の頃より音楽活動をはじめる。その後、伝説的グループ「PUNGO」結成。96年にはオリジナル曲を集めた初リーダーアルバム「right here !!」を発表。97年、串田和美演出「春の目覚め」で、音楽監督をつとめる。幅広い音楽性とアグレッシブなバイオリンが注目され、様々なジャンルでのコンサート、レコーディング活動を行っている。近年はラーシュホルメル、トリスタンホンジンガー、ウイレムブロイカーなど海外のアーティストや、おおたか静流、酒井俊、朝崎郁恵など歌手との共演も多い。 向島ゆり子のスケジュールを見る |
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金元誠 |
(きむうぉんそん) 1981年東京生まれ。15歳よりギターを始める。 高校卒業後、ジャンルレスであらゆるセッションやライブに参加して活動を始め る。 ジャズギターを高内春彦氏に師事。 サンバチーム ブロコ アハスタォンではパーカッションとギターを担当。 現在、ブラジリアンギターからエレクトリックギター、オリジナル曲等を中心に 幅広いスタイルで都内を中心に活動中。 |
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金敏基(キムミンギ)とはどういう人物か | ソウル大絵画科を卒業した画家? そうかな? 「朝露」の曲を作り,自分で歌った音楽家? ときおり野良仕事をしているという噂どおりなら,農夫? そうかな? そうでなければ,扇動家? そうかな? 酔っぱらい? 全部,そうかな?だ。 最初にわたしの目に写った金敏基は,卓越 した音楽家であった。それは彼が「朝露」作った手腕をみればよい。 しばらく後,わたしが軍隊に行き,外国に行っている間に,彼が送ってくれた 慰問の手紙によって,わたしは彼が卓越した文章家であることも知った。その数 通の手紙によって,金敏基は,朝鮮語を誰よりもネチネチと書き綴ることができ る金芝河(キムジハ)や,朝鮮語にぴったり朝鮮のリズムに乗せて文章を綴るこ とのできる呉太錫(オテソク)や,朝鮮語に一番美しい翼をつけて雲の果てまで 飛ばせてみせる李済河(イデェハ)の文章に匹敵する技術を持っていることを確 認したわけだ。 もちろん,わたしの説がかたよっているという非難はありうるだろう。しかし ,この世のどこにどちらにも偏らない公正な評価というものがあるというのか。 わたしの説が偏っているかどうかを議論するよりもまず,「朝露」の歌詞をもう 一度じっくりと読んでみることを勧めたい。断言するが,韓国歌謡100年の歴 史を通して3本の指に入る歌詞なのだ。 本当の詩は,うたのことばでなくてはならない。書いた人もわけがわからない 詩が100編あってもしょうがない。 プーシキンの「人生を如何にせん」が他にあるか。ユントンジュの「死の日ま で天を仰ぎ」が他にあるか。キムソウォルの「薬山のつつじ」が他にあるか。「 朝露」は,その歌詞だけをとりあげれば,これらの詩と双子の関係にある。韓国 の心ある若者たちが,十年一日のごとく「朝露」をつぶやき続けている理由も, まさにここにある。 3部に分けられたこの曲に流れは,ちょっと見ただけでは西洋臭い曲調に感じ られるかもしれないが,その骨格はわが伝統音楽の宮・・商・角・徴・羽(朝鮮 伝統音楽の五音の名称)にあっているのだ。ハ長調と仮定するとき,へ音とロ音 が西洋式に流れているようにみえるが,それは単なる経過音にすぎず,結果的に 朝鮮の純粋な節回しのうえに西洋の明るい旋律が添加された,このうえなく理想 的な曲となっている。 「朝露」はラジオで放送されたこともなく,テレビで歌われたこともない。し かしロサンジェルスで,ニューヨークで,韓国のことを憂える若者はみな歌った 。この曲の主人が,まさに金敏基なのだ。 1986・3・6 趙英男(チョヨンナム・歌手) |
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本物の歌、 キム・ミンギの歌 |
イ・ヂョンミさんの「キム・ミンギを歌う」というテープを聴いた。 イ・ヂョンミさんの歌を聴くのは初めてだった。素晴らしかった。心のこもっ た本物の歌だ。すっかり気にいってしまい,毎日一度は車のなかで聴いている。 ぼくに朝鮮語がわかるわけではないのに,朝鮮語で歌うイ・ヂョンミさんの歌は ,わかってしまうのだ。 少したってから,このテープのレコーディングに参加したキーボードの竹田裕 美子さんが,全曲の日本語訳を貸してくれた。その日本語訳を見ることで、ぼく がイ・ヂョンミさんの歌に感じたことを裏付けることはあっても,くつがえすこ とはひとつもなかった。 それにしても,イ・ヂョンミさんがこんなにも心をこめて歌うことのできる, 韓国にいるキム・ミンギという人はどんな人なのでろう。 「朝露」という曲が入っている1971年に製作されたキム・ミンギのテープ を聴くことができた。 やっぱり、本物の歌だった。素直に,必要があって歌っている歌だった。 キム・ミンギの歌は、日本で言えばフォークというようなジャンルに分類され るのであろうが,本質的にはまったく別のものだ。日本でのフォークと呼ばれた 音楽は,もともと親のすねかじりの無責任な正義感ソングだ。戦後の(経済)戦 争成金,札ビラばらまき,あっちのファッションこっちのブランドとお色直しは 尽きることを知らない。衣を着けるところの本体をかえりみることなく,ひたす ら衣替えに夢中になっている我らがフォークにひきかえ,キム・ミンギの歌は自 分への切実な問いかけになっている。 小室等(音楽家) |