Diary 2010. 4
メニューに戻る
4月7日 (水)  済州島2010 その1 イムジン江

2003年4月2日に「済州島4.3前夜祭」で初めて両親の故郷済州島で歌ってから、毎年同じ催しで歌わせてもらっている(昨年だけ参加できなかったが)。
済州島4.3とは、1948年に朝鮮半島の南側の単独選挙目前に起こった抵抗運動で、4.3事件、4.3民衆抗争とも呼ばれている。当時の島民30万人中8万人とも、島民の四分の一とも言われる人々が殺戮されるという悲惨な歴史だ。島の人々は、その後半世紀以上、あまりにも痛ましい歴史に口を閉ざし続け、歴代韓国政府は「共産主義者の暴動」として真実を黙殺してきた。もちろん、私の両親からも、生前4.3のことは一度も聞いた覚えがない。
毎年この時期、島は桜のピンクと菜の花の黄色に鮮やかに彩られる。約六十年前に、この楽園のように美しい島のいたる所が、血の海のように真っ赤に染まったと想像するのはとてもむずかしい。
62周年を迎えた今年の4.3も、いつものその日のように肌に突き刺さるような寒さだった。前夜祭の舞台に立つ度に、寒さと痛みで、身体がしびれてしまう。
今年は主催者から「イムジン江」をぜひ歌って欲しいと要請された。実は「イムジン江」はソロで歌ったことがないのでとても困った。これだけ人々に愛され歌われている歌なのだから、きっと名曲に違いない。でも、北で作られた原曲の詩も、フォーククルセイダースの日本語の詩も、抵抗があってずっと歌えずにいたのだ。仕方がないので、2番以降を自分で作詞して歌う事にした。

元の歌詞
イムジン江の清い水は流れ流れて
水鳥は自由に行き交い飛ぶけれど
我が故郷南の地、行きたくとも行かれぬ
イムジン江の流れよ、恨みをのせて流れ行け

川向こうの芦の原っぱでは鳥たちが悲しく鳴き
乾いた野原では草の根を掘るけれど
協同農場の稲、波の上で踊るよ
イムジン江の流れを遮ることは出来ない

我が故郷北の地、行きたくても行かれない
イムジン江の流れを遮ることはできない

李政美の作詞(2番)
川向こうの野には黄金の稲の波が踊り
駆け遊ぶ子どもらの声大空に響け
我が故郷北の地、いとしい我が兄弟よ
イムジンの流れよ、願いをのせて流れ行け

引き裂かれた同胞よ また会って抱き合おう
イムジン江の流れよ、願いをのせて流れ行け

歌いはじめた途端、胸が締めつけられるようだった。やっぱり名曲なんだなあ。この曲を作った人だけではなく、歌い継いできたたくさんの人の祈りがこめられているからだろうか。やっと、これからこの歌を歌えると思った。毎年4.3で歌うだろう。


4月10日 (土)  済州島2010 その2 ハルマンモッ

前夜祭翌日の4月3日、今年は、4.3平和公園で催される慰霊式には参加せず、海軍ペリポート建設予定地の江汀(カンジョン)村を訪ねることにした。
カンジョンという響きは幼い頃からずいぶん耳に親しんでいる。父の生まれ故郷は道順(トスン)村、その隣のカンジョン村は母の生まれ故郷だとばかり思い込んでいた。確かめるために、カンジョン村に向かう車の中から国際電話で長兄に確かめてみると、母の故郷はナムウォンのテフン村だとのこと。カンジョン村は、祖父母と他の兄弟が先に日本に渡って行ったため、残された父が数年間預けられた親戚の村だという。
済州島の南、西帰浦(ソギッポ)の隣に位置するカンジョン村は美しい海岸線に恵まれた風光明媚な半農半漁の村であり、水が貴重な済州島にありながらその名カンジョン(江汀)はここの名水に由来するとのことだ。陸にはみかんとにんにく畑がのどかに広がり、畑の向こうにはハルラ山が間近に見える。ゆっくりと溶岩が海に流れ込んだために、奇妙な形をした岩たちが敷き詰められた海岸は、済州島でもかなり珍しい風景だそうだ。その向こうにはエメラルドグリーンの海が凪ぎいていた。
父は、毎日こんな風景を見ながら暮らしてたのか...。そう思うと、鼻の中がツンとした。母は私が18歳の時に他界し、日本には母の思い出が多すぎて辛いと言って、父はひとり済州島に帰って西帰浦に家を借りて暮らしていた。そのうち再婚もして、父はきっととても幸せなはずだったのに、病気で入退院を繰り返すようになった父を、長兄が無理矢理日本に連れ戻した。
故郷の済州島で死にたいと言っていた父は、どんなに子どもたちを恨んだことだろう。そんなことを思いながら海岸を歩いていると、ハルマンモッという美しい入り江が目に飛び込んできた。デジャビューというのか、一瞬軽いめまいをおぼえる。母に連れられてはじめて済州島を訪れたのは、6歳の夏だった。その時の母の故郷の匂いも風景も、かなり鮮明に憶えている。だが、あの時訪れたのはカンジョン村ではなく、テフン村だったはず...。でも、目の前にある風景は、子どもの頃に遊んだ記憶の中の映像とぴったり重なる。その途端、6歳の夏の思い出が蘇ってきて、その場を動けなくなってしまった。

この美しい海辺の村に、なぜ人を殺すための基地を作らなければならないのか。長い長い年月をかけて作られた自然の芸術のようなこの海をコンクリートで埋め尽くしてしまったら、もう二度と復元することはできないのに...。理不尽さと人間の愚かさに、怒りと悲しみがこみ上げてくる。住民達の基地建設反対の意思に反して、基地建設を阻止するのはかなりむずかしいようだ。でも、私も基地建設反対の意思と願いを表していくつもりだ。
遠からず、またこの村を訪れようと思う。

*写真はハルマンモッ。ハルマンは済州島の方言でおばあさんのこと。モッは泉。子宮の形をした入り江に海水が流れ込み、陸の方からは湧き水が流れ出る、とても珍しい入り江。ここで沐浴をするとかならず妊娠するという言い伝えがある。夏は子どもたちの絶好の遊び場。

20100410-1.jpg



2010/4
SuMoTuWeThFrSa
    123
45678910
11121314151617
18192021222324
252627282930 

前月     翌月