Diary 2009. 3
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3月16日 (月)  甥の挑戦

甥のボクシングプロデビュー戦を観に後楽園ホールに行ってきた。
プロデビューと言っても甥はもう34歳。朝鮮高校時代はボクシング部で同級のホンチャンスと一緒に練習した仲らしい。
去年の秋頃からまたボクシングジムに通い始め、今日のデビュー戦のために減量をし、毎朝荒川の土手をランニング、昼過ぎからジムで練習、夕方からは母親の韓国料理店の手伝いをしながらがんばってきた。
冷ややかな母親の代わりに、私くらい応援してあげないとかわいそうで、ドキドキしながら会場に向かった。
道すがらボクシングと言えば千代さんだなあと思いながら会場に着くと、ホールの入り口でなんと、千代さんがお母さんと一緒に彼の本「一拳一会」(星雲社 /2000円)を売っていた。久しぶりの再会。
千代泰之さんは、金沢の山元加津子さんのつながりで知り合い、コンサートにも何回も遊びにきてくれた。確か 3年くらい前に姉のお店にもボクシングの仲間たちと来てくれて、甥とボクシングの話で盛り上がったことがある。
彼は、20歳の時にオートバイ事故で首の骨を折って四肢麻痺になり、以来車椅子の生活をしている。はじめて会津のコンサートに来てくれた時も、次に小松のコンサートに来てくれた時も、きれいな若い女性ボランティア数名に囲まれて、周囲の羨望の的だった。今日も、やっぱりかわいい若い女性がかいがいしくお世話をしている。
いよいよ三試合目、甥の登場だ。千代さんもホールの中に入ってきて応援してくれる。私も車椅子の特等席の隣に陣取って緊張ぎみの甥を見守る。「イベリコ・ユン」のファイティングネームはちょっとふざけすぎ。黒のトランクスには、貝原画伯の赤いとんがらしのロゴが。
ゴングが鳴って威勢よくリングの中央に飛び出した甥は、数発パンチを連発するが、その直後相手の強烈なパンチを三回あびた。バスッ、バスッというものすごい音に体が凍りそうになる。甥の動きが一瞬止まって、そのままレフェリーがかけよりあっけなくテクニカルKOを言い渡されてしまった。1分36秒だった。
甥はしばらくボーッと立ちすくんだまま事態をのみこめないでいるのか、アナウンサーが勝者宣言をしているリングの中を数歩さまよった後、くやしさとみじめさで歪んだ顔のまま、リングを降りていった。
甥の無念に私も涙がこぼれた。
殴り合いは大嫌いだし、もしも自分の実の息子だったら絶対に止めたかもしれない。けれど、今日の試合を観て、彼がなぜ戦いたかったのか少しだけわかるような気がした。戦う相手は自分自身だったのかもしれない。何かを越えるために、生命を燃やしたかったのかもしれない。そんなことを考えながら家に帰ってくる途中、甥から電話が。
「あ〜、イモニム、ゴメンゴメン、負けちゃった〜。オレ、もう消えてしまいたい!」といつもの軽い調子。そう、あんまり深くものを考えるタイプの人間ではなかった。
でも、ヒジョニ、君はギリギリがんばったよね。イモニムは誇らしかったよ。


3月17日 (火)  ソウル新聞の記事

3月8日、ソウルに建設予定の「戦争と女性の人権博物館」の着工式に参加した。
さまざまな困難があってなかなか建設が進まなかった博物館が、ようやく着工にこぎ着けて、日本からもたくさんの方が着工式に駆けつけた。
「戦争と女性の人権博物館」の建設には、日本軍「慰安婦」にされた被害者の名誉と人権を回復することと、二度と同じような悲劇が繰り返されないようにとの願いがこめられている。
去年の6月、大阪のファンの中から博物館建設のお手伝いをしたいという想いがつのり、ファンが中心になって実行委員会をつくって、大阪でチャリティーコンサートを開いた。「慰安婦」ハルモニたちにつながりたいという願いをこめて、「つながる歌、つながる舞、つながるいのち」といタイトルにした。
今年の2月には、東京でもチャリティーコンサートを、という声が広がって、やはり私のファンを中心に実行委員会を作って「つながる歌、つながる舞、つながるいのち東京」を開いた。
出演は、韓国舞踊の趙寿玉さん、パンソリの安聖民さん、それから私の在日の女性アーティスト3人。
実行委員の熱意で、大阪(約800席)も東京(約900席)もいずれも客席はいっぱいになり、収益金もそれぞれ200万円を越えた。
博物館着工式への参加は、コンサートに取り組んだ実行委員のみなさんの、ハルモニたちへの想いを伝えるためだった。
朝、会場に着く前に、挺対協の代表から「ソウル新聞の記者が取材をしたいと言ってる」という電話がかかってきた。新聞記者は着工式会場には現れず、着工式が終わって次のイベントに出演している間に連絡があり、出演が終わった後に電話で10分くらいインタビューに応じた。着工式に参加した経緯と、チャリティーコンサートについて、主に話をした。
最後に、博物館建設に反対している独立運動有功者の方たちをどう思うかと質問されたので、「とても胸が痛い事だけれど、それもまた韓国人の"傷"ではないか。それぞれの傷を共有できる日が来ることを祈っている」という内容の話をした。
記事は翌日9日の朝刊に掲載されたが、駅や売店でソウル新聞をさがすがどこにも売っていない。
夕方になって、友人が電話で「ー慰安婦追慕公園反対は家父長的ーというちょっと過激なタイトルになってるよ」と知らせてくれて、その時は、あれ?と思うくらいだった。
10日に日本に帰ってきて、インターネットで記事全部を確認してびっくり。
タイトルだけではなく、記事の内容が、私が思っていること、言ったこととはあまりにもかけ離れた内容だったからだ。
チャリティーコンサートのことには一言も触れられてなく、私の歌「オギヤディヤ」の一節が引用されているだけ。後は、独立運動団体が博物館建設に反対していること、それに対して私が「断固として刃を剥いた」と書かれている。それから、「"独立有功者だけが公園に迎えられる資格があるという論理は、もうひとつの家父長制の現れではないか"と批判した」と締めくくってある。
本当に驚いた。
記事は事前に用意されていて、私の名前と写真だけが必要だったんだとしか思えない。
5年間も先送りになってようやく着工式を迎えたことを、ただただお祝いしたいという気持ちだけの私の話を、どうしてこんな風に歪曲することができるのだろうか。
何度か読み返してみると、博物館建設に対して韓国国内でも反対が多いということを強調するだけの記事になっていることに気づく。この記事によって、博物館建設に悪感情を抱く人を潜在的に増やしてしまった可能性もある。そんなことに私が利用されてしまったんだと思うと、本当になさけなってくる。
マスコミの取材は、もっともっと慎重にうけなければいけないと肝に銘じた。自分が傷つくだけではなくて、誰かに害を与えることもあり得るから。
ソウル新聞の記者には、訂正記事を掲載してくれるようにお願いのメールを書いたが、4日経った今もまだ返事がない。



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