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5月1日 (日) 宮城被災地ツアー
宮城被災地ツアー その1
4月23日から、三カ所の障害者福祉作業所のお菓子と、ファンの方たちから預かった支援の物資をワゴン車いっぱいに詰め込んで、南三陸町と気仙沼に歌いにいってきた。 3月11日の大地震で大きな被害があった宮城県には、たくさんの友人、知人が住み、コンサートで訪れた場所がたくさんある。東京でも大きな揺れを感じた直後に津波のニュースを聞いた瞬間、いくつものなつかしい人たちの顔が頭をよぎった。 とりわけ南三陸町志津川には、私の最も親しい友人・杉田徹さんの家族が住んでいて、十数年前から毎年のようにコンサートを開いてくれている。今回の地震で亡くなった方たちの遺体安置所になっていた志津川の「ベイサイドアリーナ」は、オープンした年の1998年にこけら落としのコンサートで歌った思い出の場所だ。 そして、やはり大きな被害にあった気仙沼市には、徹さんの家でのコンサートで初めて私の歌を聴いて以来、熱心なファンになってくれた鈴木さんご夫妻が仲間達に呼びかけてくれて、ここ数年ほぼ毎年歌いに行っている。 地震から数日間友人たちの安否が確認できずに居ても立ってもいられない日が続いたが、徹さん一家の無事は4日目に、その後一週間くらいの間に、気仙沼の鈴木さん夫妻、小野寺弁護士夫妻、歌津の頭領佐藤与一さんはじめ、徹さんの仲間達の無事が次々に確認できて、胸を撫で下ろした。 すぐにでも被災地に駆けつけたい気持ちが募ったが、震災後はじめて電話で話した徹さんには「ボランティアはいいから、この惨状を目に焼き付けにおいで。ちょんちゃんの仕事は歌うことだから」と言われた。 被災地に歌いに行こうと決心したのは、4月初旬に朝日新聞に載った佐藤与一さんの記事。自らも家を流されたけれど、避難所の世話役として大活躍している与一さんは、マスコミ受けする風貌なのかテレビの画面にも何度も姿を現した。新聞記事には「ラジオから流れてくるビートルズのナンバーを聴いて涙を流している。生の歌が聴きたいなあ」というようなことが書いてあった。 無事を確認して喜びあった気仙沼の鈴木さんも、何か必要なものは?という問いに、「ちょんみさんの歌が聴きたいなあ」と。 地震から一ヶ月が過ぎてある程度お腹が満ちて来た頃、心を満たす音楽が必要かもしれないと思い、南三陸町と気仙沼を訪れることに決めた。昔の紙芝居のように、聴いてくださるお客さまにはお菓子とお茶を一緒にいただいてもらって。 お菓子は、今までお世話になった障害者の作業所三カ所に声をかけたら、快く請け負ってくださり、そのうち二カ所からは無料で提供していただいた。 それから、ガソリン代や高速料金、支援物資などの購入のために必要な資金を捻出するために、4月17日に駒込どぅたっちで急遽ライブをすることになった。告知からライブまで一週間余り、どれくらい集まってもらえるか心配だったが、参加者は56名。チケット収入、カンパを含めて265,500円のお軍資金が集まった。 また、HP掲示板での呼びかけに、たくさんの衣類や支援物資が集まった。 世田谷・パイ焼き窯、深谷市・あゆみ作業所、函館・虹と夢のみなさん、ありがとうございました。駒込どぅたっち・陽子ねえねえ、ありがとう。カンパ、物資、心を送ってくださったみなさん、どうもありがとう!
収支報告です。
収入 ライブチケット代・カンパ 265,500-
支出 ガソリン代 21,280- 高速代 9,700- お見舞金 180,000- お菓子 25,000- 食料品、支援物資等 27,540- 水タンク 3,980- 雑費 13,720-
合計)281,220-
△15,720
*5月8日に、函館の「虹と夢」から25,000円のカンパが送られてきました。 したがって、9280円の黒字となりました。ありがとうございます。
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5月2日 (月) 宮城被災地ツアー その2
4月23日午前5時前、タウンエースに音響機材、楽器、食料、支援物資等、身動きできないほどの荷物を積み込んで、オフィスとんがらしを出発(積みきれない荷物は急遽宅急便で送ることに)。 メンバーは、ギターの矢野敏広さん、清水能親(大清水)さん、清水康正(小清水)さん、それから私の4人。運転は大清水さん。前日数時間仮眠を取っただけで、結局目的地の志津川まで一人で運転をしてくれた。 前日の晩、toyoさんがお弁当とお菓子、果物等を小清水さんに届けてくれて、その気配りにお腹も心も満たされる。toyoさん、ありがとう。 午前11時過ぎに南三陸町に入る。入谷地区を過ぎたあたりから里の様子は一変。山の中にある徹さんの家に入っていく目印のポンプ小屋は流され、秋目川に架かる橋は辛うじて無事だが、橋を乗り越えたと思われる大きな船の残骸が無惨に横たわっている。私たちはあっけに取られ、ポンプ小屋跡を通り越して、そのまま志津川の町の方まで降りて行くことにした。テレビの画面で繰り返し流された光景が現実に目の前に迫り、言葉を失ってしまった。去年、貝原浩さんの絵画展を開催した「夢プラザ」も、よくソフトクリームを買いに行ったミニストップも、お土産の海産物を買いに行った鮮魚店も、跡形もなくなっている。 11時半、徹さんの家に到着。抱き合って無事を喜び合う。徹さんは妻のあっちゃんとコルティッホ・ソーナイという養豚場を営んでいる。小学校6年生ののばらと3年生のはるかの四人家族。昨年「フォルティシモな豚飼い」という本を出版し、地震の数日前にその続編を入稿したばかりだった。カメラマンでもある徹さんは、地震後の志津川を撮り続けていて、その写真は福音館書店の「母の友」8月号に載る予定だ。 徹さんの家は、数日前に電気が復旧したばかり。元々テレビもなく、沢の水を引いて、薪ストーブで暖をとる暮らしをしている杉田家にとって、電気のない暮らしは、さほど不自由ではなかったそうだ。 昼食をご馳走になり、一休みをしてからこの日のコンサート会場の歌津中学校へ出発。まるで戦争の焼け跡のような志津川と歌津の町を通り、午後2時頃中学校に到着すると、熊のような風貌の頭領・佐藤与一さんが満面の笑顔で迎えてくれた。杉田邸をはじめ、与一さんが建てた家は津波に流された家をのぞいて、びくともしなかったそうだ。当の与一さんの家は津波で流され、今は作業場で娘と息子と三人で暮らしている。避難所になっている歌津中学校では世話役(顔役?)として大活躍をしていて、私のコンサートも是非、という与一さんの熱意で実現した。 機材を二階の体育館に運び入れて、セッティング開始。舞台の上には救援物資などが積んであり、体育館の床には青いマットで区切られた四畳から六畳くらいのスペースに数人ずつの家族が休んでいる。後ろの方では、ボランティアで歌いに来た若いミュージシャンが子供たちと歌いながら遊んでいる。山元町で被災したれいままも駆けつけてくれて、お茶やお菓子を配るのを手伝ってくれた。 4時からコンサート開始。まず与一さんが挨拶と私の紹介をしてくれて、あっちゃんのリクエストの「あなたが笑っていると」から始める。会場にたどり着いても、まるで地獄絵図のような町の映像が目に焼き付いて離れない。心がこんなにも乱れ、ざわついたままでも、歌は歌えるのだと妙に冷静な自分がいる。震災後テレビや報道で繰り返される「がんばれ」という言葉は私には使えない。今できるのは、一緒に痛み、悲しみ、泣き、笑うこと。 歌い終わったあと、何人もの方がそばに来て手を握ってくださり、胸がいっぱいになる。明日も全身全霊で歌おう。 その晩は、徹さんとあっちゃんが信じられないようなご馳走を用意してくれて、みんなで生きてることの喜びを分かち合った。前日、車の中でも眠る事ができなくて完徹をしてしまった私は、早々に沈没。零時を過ぎても止まない宴の子守唄を聴きながら深い眠りについた。
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5月3日 (火) 宮城被災地ツアー その3
4月24日午前8時半、徹さんの家を出発、無惨な傷痕をさらす志津川と歌津の市街地を通って気仙沼に向かう。唐桑に住む鈴木さんご夫妻とその仲間たちが、唐桑の二カ所で私のコンサートを準備してくれている。 午前10時過ぎ、午後一時からの会場・唐桑小学校に到着。鈴木さんの妻の千春さんと再会を喜び合い、地元の方の案内で、今日の二つ目の会場、鮪立老人憩いの家に向かう。 老人憩いの家には、鈴木賢さんはじめ、いつも私のコンサートを主催してくれるブルーフィン早馬のみなさんが待っていてくれた。ブルーフィン早馬の仲間の内6名の方が津波で家を失ってしまった。こんな時にコンサートとは...。鈴木さんご夫妻も、ブルーフィン早馬のみなさんも、自らが被災しながら地域の方々のために一生懸命だ。このコンサートもチラシを作ったり、あちこちに宣伝したり、大張り切りである。 大船戸のイケメンギタリスト・石橋君に音響のセッティングを手伝ってもらってサウンドチェックを済ませ、今日最初のステージの唐桑小学校にとんぼ返り、音響機材セッティング、サウンドチェック。 千春さんのお姉さんのルミさん、娘さん、他なつかしいみなさんと再会。持ってきたお菓子、お茶を配る準備をする。それから、前日配るのを躊躇した衣類やその他の物資を、会場の後ろのスペースに遠慮ぎみに並べる。物資が有り余るほど送られてきて、開けられないまま山積みになっているという話を聞いて、そのまま東京に持って帰ってフリーマーケットでお金に変えて送った方が良いかもしれないという考えがよぎったからだ。 準備万端整い、お手伝いのみなさんと一緒に体育館の一角で車座になって昼食を取る。停電が続く中、千春さん、ルミさんたちが貴重な食材を使って、心づくしのお弁当を作ってくださった。美味しい美味しいご馳走、ありがとうございました。 唐桑小学校は、避難所にもなっていて、いくつかの教室に数名ずつ、100名余りの方が避難している。会場の体育館には、避難してる方や近隣の方たち約100名の方が聴きにきてくれた。 十数年前に初めて気仙沼でコンサートを主催してくれた弁護士・小野寺康男さんの妻のシゲコさんもコンサートに駆けつけてくださった。一昨年の秋、小野寺夫妻の企画で気仙沼市内にある三カ所の老人ホームをまわり、佐久間順平さんのゲストで歌った。そのひとつの「リバーサイド春圃」は津波で流され多くの入所者、職員の方が亡くなったそうだ。シゲコさんに、他の二カ所の老人ホームに届けてくださるようにお菓子を託した。 午後1時、最初のステージ開演。まずは東京の世田谷から、あちこちの被災地に飛び回って歌っているハンサム判冶さんが3曲歌ってくれる。大きな大きな体躯、マイク無しでも充分響き渡る声量で観客を元気づける。その後、石橋君もインストを2曲。判冶さんとは対照的な静謐な演奏。歌が、音楽が観客の心に染み込んでいくのがわかる。今ここにいる人たちは、どんな状況の中にいて、どんな想いで集まってくれたのだろうか。私もいつもの通りに、でも一層細やかに丁寧に歌わなければ。 今回のツアーのために、レパートリーを少し増やした。その中の一曲が「アンパンマンマーチ」。誰でもが知っているアンパンマンだけど、これがすごい名曲だということは、あまり知られていないかも。もっと子供に聴いてもらえると思ったが、そうでもなくて残念。この日はやんちゃなちびっこがいたので一緒に歌ってみた。
アンパンマンマーチ 作詞:やなせたかし、作曲:三木たかし
そうだ うれしいんだ 生きる よろこび たとえ 胸の傷がいたんでも
なんのために 生まれて なにをして 生きるのか こたえられない なんて そんなのは いやだ!
今を生きる ことで 熱い こころ 燃える だから 君は いくんだ ほほえんで
そうだ うれしいんだ 生きる よろこび たとえ 胸の傷がいたんでも ああ アンパンマン やさしい 君は いけ! みんなの夢 まもるため
なにが君の しあわせ なにをして よろこぶ わからないまま おわる そんなのは いやだ!
忘れないで 夢を こぼさないで 涙 だから 君は とぶんだ どこまでも
そうだ おそれないで みんなのために 愛と 勇気だけが ともだちさ ああ アンパンマン やさしい 君は いけ! みんなの夢 まもるため
時は はやく すぎる 光る 星は 消える だから 君は いくんだ ほほえんで
そうだ うれしいんだ 生きる よろこび たとえ どんな敵が あいてでも ああ アンパンマン やさしい 君は いけ! みんなの夢 まもるため
2時半終演、大急ぎで後片付けをして、次のステージの鮪立老人憩いの家へ向かう。心配していた物品は、出したものは全部無くなっていた。みなさん喜んで持って行ってくださったそうだ。よかった〜。 鮪立老人憩いの家は、この地区の小さな避難所になっていて、救援物資の仕分け場所にもなっているようだ。コンサートには、50〜60名の方が集まってくださった。 3時半前に二度目のステージ開演。まず石橋君が一曲演奏してくれて、私は「上を向いて歩こう」から始める。年配の方が多く、最初から暖かく、熱心に聴いてくださる。この日徹さんの家に、矢野さんはマンドリン、大清水さんはカメラを忘れてくる。手持ち無沙汰な大清水さんには「手話」を手伝ってもらうことにする。大清水さんのキャラクターに会場も和み、最後の「花」では大合唱となり、アンコールの「小さな空」もしみじみとみんなで一緒に歌う。 どの会場でもお菓子をお配りしたが、手作りのお菓子とメッセージカードは大変喜ばれた。そしてこの会場でも物品を並べたが、みなさんにとても喜んでいただいて、とりわけつくばの高橋京子さんのお仲間が送ってくださったエプロンは、女性の方たちに大人気だった。 終演後、居間に呼ばれて、お茶と漬け物とヨーグルトをいただく。その地区の役員らしい方は、お礼の言葉を述べられながらご自身と朝鮮半島とのつながりについて語ってくださり、心が熱くなった。また、世話役らしい年配の女性からはお土産に手作りのお漬け物と鉢植えの水仙までいただいてしまった。たくさんの「おみやげ」をいただいて、鮪立を後にする。 少し遠回りをして気仙沼湾の辺りを通って帰途につくことにする。昨年の「貝原浩展」の会場だった一景閣 も、なじみのお寿司屋さんも、よくお土産を買い行ったお魚市場も、跡形もない。日が暮れかかった町はさながらゴーストタウンだ。老人の家でもらった暖かさはいっぺんに冷めてしまい、つぶれるような思いで志津川へと向かった。
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5月4日 (水) 宮城被災地ツアー その4
山道を抜けて歌津、志津川の町を通って徹さんの家へと急ぐ。日が暮れかかった瓦礫の町は、一層不気味で醜くく映る。津波に飲み込まれて家を失った方々、命を落とした方々に思いを馳せる一方で、正直これが文明が作り出した物の成れの果ての姿なのかという印象を持ってしまった。 夕方6時半頃到着すると、戸倉の竹男さん、与一さんはじめ、コンサートでいつもなじみの志津川の仲間達が私たちの帰りを待っていてくれた。この日をとても楽しみにしてくれていたらしい。集まった6人のうち、3人が家を失った。あっちゃんと徹さんが用意してくれたご馳走をいただきながら、ひとりずつの体験談を聞かせてもらう。 地震から津波が来るまでの25分間が運命の分かれ道だったという。取る物も取らずに、後ろも振り返らずに逃げた者は助かり、第一波の後安心して家に戻った者はその後の大きな波に飲まれてしまったという。オレたちはたまたま運が良かったんだという与一さん。あんなに大勢の犠牲者が出たのに、知り合いに一人も亡くなった方がいなかったというのは、なんという不思議だろうか。それぞれの話を聞きながら、なんとか生き延びてくれたことに心から感謝する。 地震が天災なのはあきらかだとして、今回の津波の被害は人災でもあるということ。この日集まった皆が、歴史的に幾度となく津波被害を受けてきたこの土地で、津波対策のずさんさを改善させられなかったことを悔やんだ。そして、原発事故に対する怒りを口にした。地震と津波だけだったなら、復興するのにたとえどんなに時間がかかっても、故郷の地で生きて行く希望が持てたのに。このままでは放射能に海も土地も空気も汚されて取り返しがつかなくなってしまうだろうと。 そんな深刻な話をしながらも、地震以来はじめてお酒を口にする人もいて、飲めや、歌えやのにぎやかな宴となった。例によって私は先に床に入る。おじさんたちはどうしてあんなに元気なのだろう。
25日朝10時頃、荷支度をして徹さんの家を出発。今日はのばらとはるかの通う志津川小学校で歌う。地震の起きた時間、のばらとはるかはお父さんたちが迎えにくるのを待っていた(杉田家から学校まで徒歩で1時間以上かかる)。徹さんとあっちゃんは豚肉の配達から一旦家に戻って、子供たちのお迎えに出かけようとした時に地震が起きた。地割れのため車が通れないので山道をかきわけて山を下りる途中、近所の人の情報で小学校は無事と聞き、一晩を親子別々に過ごしたそうだ。子供たちは両親の安否を確認できずどんなに不安だっただろうか。志津川小学校では、1年生がひとり亡くなったそうだ。 避難所になっている体育館で歌うか、プレイルームの小さなスペースで歌うか迷った末、プレイルームで歌うことにした。校舎ではまだ電気も水道も止まっていたので、学校は授業を始められずにいたが、この日は青空教室があって子供たちが登校するので、その下校時間に合わせてコンサートの時間を設定した。あっちゃんがチラシをたくさん作って宣伝してくれる。 結果、開演時間の11時半になってもお客さまはほとんど来ない。ああ、ここに来てください、ではなくて、私の方から行くべきだったと悔やんでも後の祭りである。ようやく10名足らずの方が集まってくれて、5分くらい遅れて開演。聴きにきてくださった方に申し訳なく、またありがたい気持ちで、精一杯歌う。お客さまも、私と矢野さんを盛り立てようと一生懸命耳を澄まし、拍手をしてくれる。そのうちに、演奏する私たちも観客も、そんなことはもうどうでも良くなってきて、音楽の響きの中で心がひとつにつながっていくような感覚を楽しんだ。最後の歌を歌い終わった後も拍手は鳴り止まず、2曲もアンコールで歌う。
この日初めて歌った歌。
いつも何度でも 作詞:覚和歌子、作曲:木村弓
呼んでいる 胸のどこか奥で いつも心躍る 夢を見たい
かなしみは 数えきれないけれど その向こうできっと あなたに会える
繰り返すあやまちの そのたび ひとは ただ青い空の 青さを知る 果てしなく 道は続いて見えるけれど この両手は 光を抱ける
さよならのときの 静かな胸 ゼロになるからだが 耳をすませる
生きている不思議 死んでいく不思議 花も風も街も みんなおなじ
* la la lan lan la lan la-la-la-la lan lan la lan la-la-la-la lan lan la la lan la la la lan la-la-la-la lan
o ho ho ho ho ho ho-ho-ho-ho lun lun lu lu-lu-lu-lu-lu-lu lu-lu-lu-lu lun lu lu lu lun lu lu lu___________
呼んでいる 胸のどこか奥で いつも何度でも 夢を描こう
かなしみの数を 言い尽くすより 同じくちびるで そっとうたおう
閉じていく思い出の そのなかにいつも 忘れたくない ささやきを聞く こなごなに砕かれた 鏡の上にも 新しい景色が 映される
はじまりの朝の 静かな窓 ゼロになるからだ 充たされてゆけ
海の彼方には もう探さない 輝くものは いつもここに わたしのなかに みつけられたから
*(繰り返し)
終演後、気仙沼の鈴木さんが出発前に駆けつけてくれて、気仙沼の「男山酒造」から預かった日本酒を届けてくれる。二代目の若旦那からの差し入れだ。被災地から救援物資をいただいてどうする。 12時半前、鈴木さん、徹さん、あっちゃん、のばら、はるかと別れて、竹男さんの車の先導で、登米に向かう。次の会場の登米公民館は志津川で被災した方たちの避難所になっている。避難所の世話人になっている竹男さんの友人が、歌津でのコンサートの話を聞いて、是非登米でもと声をかけてくださった。 避難所のみなさんがちょうどお昼ご飯の後休んでいるところに機材を運び入れ、恐縮しながら素早くサウンドチェックを済ませる。機材搬入、セッティング、チェックまで最短30分。もちろん地元の方の協力があってこそだが、ツアー3日目ともなると慣れたものだ。W清水さんの働きぶりに脱帽! サウンドチェックの後身支度のために立ち寄ったトイレで、「いぢょんみさんですね!」と若い女性に声をかけられる。志津川で何度も私のコンサートを聴きいてくれた方だった。私の歌をとても楽しみにしてくれていたその女性は、祖父母を津波で亡くされたと淡々と話してくださった。 午後2時過ぎ開演。公民館の会場は、歌津中学校の体育館と同じくらいのスペースで、舞台からお客さまを見下ろすかたちで歌うことになり、会場の隅々まで見渡すことができた。ゆっくりくつろぎながら聴いてくださいね、と促しても、後ろの方でも正座して聴いている方がいる。はじめうなだれて聴いていた方も、最後には顔をあげて一緒に口ずさんだりしてくれる。 みなさん、本当にありがとうございました。 機材片付けから積み込みまで15分。さすが!午後3時半前、komorebiさんがたくさん作って送ってくれたキャンディーや小さなおもちゃのパック(ヤノピーのシール、歌詞のシール付きのとても手のこんだもの)の残りを竹男さんに預けて、登米を後にする。 途中遅い昼食を済ませて、夕方5時頃石巻に到着。ファミレスの駐車場でオーチャン夫妻と再会。オーチャンとはここ数年、仙台の「とっておきの音楽祭」と、大館の「花岡事件慰霊式」で再会するのが恒例になっている。恰幅が良かった身体は一回り小さくなって顔もやつれてしまった。オーチャンもとしえさんもともあれ無事で良かった。地元の中里小学校の子供たちに渡すお菓子を託して、石巻を出発。 帰りは小清水さんが東京まで運転してくれる。積んで行った荷物はほとんどなくなって、後部座席も楽になった。あっちゃんが持たせてくれたサンドイッチとお菓子と飲み物でお腹を満たしながら、途中トイレ休憩と給油の他は休みもせずに、東京まで一気に走る。 夜10時過ぎに東京に到着。 みなさんお疲れさまでした!
3月11日以前と以降では、この世界はまるで違ってしまったような気がしています。私たちは、次の世代にどんな世界を手渡すことができるのか、自分が試されていると感じます。大きな力の前で私はとってもちっぽけな存在だけど、私ができる小さなことを精一杯やらなければ...精一杯歌い続けようと思います。
今回の大震災、原発事故の後、山尾三省さんの「遺言」をずっと思い出していました。 ここにご紹介します。
ー子供達への遺言・妻への遺言ー 山尾 三省
「僕は父母から遺言状らしいものをもらったことがないので、ここにこういう形で、子供達と妻に向けてそれを書けるということが、大変うれしいのです。というのは、ぼくの現状は末期ガンで、何かの奇跡が起こらない限りは、2、3ヶ月の内に確実にこの世を去って行くことになっているからです。 そのような立場から、子供達および妻、つまり自分の最も愛する者達へ最後のメッセージを送るということになると、それは同時に自分の人生を締めくくることでもありますから、大変身が引き締まります。
まず第一の遺言は、僕の生まれ故郷の、東京・神田川の水を、もう一度飲める水に再生したい、ということです。神田川といえば、JRお茶の水駅下を流れるあのどぶ川ですが、あの川の水がもう一度飲める川の水に再生された時には、劫初に未来が戻り、文明が再生の希望をつかんだ時であると思います。
これはむろんぼくの個人的な願いですが、やがて東京に出て行くやもしれぬ子供達には、父の遺言としてしっかり覚えていてほしいと思います。
第二の遺言は、とても平凡なことですが、やはりこの世界から原発および同様のエネルギー出力装置をすっかり取り外してほしいということです。
自分達の手で作った手に負える発電装置で、すべての電力がまかなえることが、これからの現実的な幸福の第一条件であると、ぼくは考えるからです。
遺言の第三は、この頃のぼくが、一種の呪文のようにして、心の中で唱えているものです。その呪文は次のようなものです。 南無浄瑠璃光・われらの人の内なる薬師如来。 われらの日本国憲法の第9条をして、世界の全ての国々の憲法第9条に組み込まさせ給え。武力と戦争の永久放棄をして、すべての国々のすべて人々の暮らしの基礎となさしめ給え。
以上三つの遺言は、特別に妻にあてられたものでなくても、子供達にあてられたものでなくてもよいと思われるかもしれませんが、そんなことはけっしてありません。
ぼくが世界を愛すれば愛するほど、それは直接的には妻を愛し、子供達を愛することなのですから、その願い(遺言)は、どこまでも深く、強く彼女達・彼ら達に伝えられずにはおれないのです。 つまり自分の本当の願いを伝えるということは、自分は本当にあなたたちを愛しているよ、と伝えることでもあるのですね。
死が近づくに従って、どんどんはっきりしてきてることですが、ぼくは本当にあなた達を愛し、世界を愛しています。けれども、だからといって、この三つの遺言にあなたがたが責任を感じることも、負担を感じる必要もありません。
あなた達はあなた達のやり方で世界を愛すればよいのです。市民運動も悪くないけど、もっともっと豊かな”個人運動”があることを、ぼくたちは知ってるよね。その個人運動のひとつの形としてぼくは死んでいくわけですから。」
最後に。 矢野さん、清水能親さん、清水康正さん、本当にお疲れ様でした。 今回のツアーにご協力くださったたくさんのみなさん、ありがとうございました。 南三陸町、気仙沼でお世話になったみなさん、ありがとうございました。 五カ所の会場で歌を聴いてくださったみなさん、ありがとうございました。 心から感謝します。 被災されたみなさんが安心して過ごせるようになりますように、お祈りします。 原発事故によって、故郷を追われた方たちに心の平安が訪れますようにお祈りします。
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2011/5 |
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