about Lee Jeongmi

李政美をめぐるアーティスト
小室 等(Vo. Gt.)
板橋文夫(Pf.)
佐久間順平(Vo. Gt. Vl.)
竹田裕美子(Pf. Kybd. Acc.)
矢野敏広(Gt. Mand.)
向島ゆり子(Vl.)
芹澤薫樹(WB. EB.)

李英愛(dance)
李政美の歌をめぐる言及
女神は大地を踏みしめて立つ ひつじ
本物の歌、キム・ミンギの歌 小室等
「朝露」と金敏基さんのこと 李政美
金敏基とはどういう人物か 趙英男
Violeta Parraについて
山尾三省「祈り」 ブログ「姐御日記」
山尾三省の遺言 
板橋文夫・李政美 DUO 2012.6
板橋文夫・李政美 DUO2 2013.10
李政美をめぐる本
私たちは幸せになるために生れてきた
                   朴慶南
誰が平和を殺すのか 佐高信
永六輔の芸人と遊ぶ 永六輔
李政美はうたう ムービーセレクション 
星とたんぽぽ (2013.8.23 石川県・小松称名寺)
ねがい~朝露 (2009.4.17 ソウル・女性プラザアートホール)
愛の讃歌 (2012.2.25 葛飾アイリスホール)
遺言 (2012.2.25 葛飾アイリスホール)
イマジン(2009.8.22 長野県原村・ムジカ合唱講座)

京成線 with板橋文夫(2013.9.29 大阪・B-ROXY)
ミリャン・アリラン with小室等 (2011.6.5 仙台・とっておきの音楽祭)
イムジン河 (2014.7.25 ソウル・さらば停戦協定平和コンサート-銃より花-)
セノヤ (2014.10.17 済州島・JEJU平和祭)
生きようよ
たくさんのファンの方が李政美のステージ動画をにアップロードしてくださっています。最近4~5年の間にアップされた動画の中から、李政美の歌の多彩な魅力を伝えているものを選んでみました。
同じ動画をもう一度再生したいときは、画面下黒帯部分の一番左側、クルリン(リプレイ)マークをクリックしてください。あるいは、ブラウザの再読み込みボタンで初期画面に戻ります。

 SUPPORT/JOINT ARTISTS

小室 等《ヴォーカル、ギター》 

こむろひとし
1943年、東京葛飾区堀切生まれ(李政美と同郷)。1968年に「六文銭」を結成。1971年、第2回世界歌謡祭にて「出発の歌」(上條恒彦と六文銭)でグランプリを獲得。1975年には、泉谷しげる、井上陽水、吉田拓郎と「フォーライフレコード」を設立。現在は、自身のコンサートを中心に活動する中、谷川賢作(pf)とのセッション、さがゆき(vo)とのユニット、娘であるこむろゆい(vo)とのデュオなどのライブ活動も。また他ジャンルのミュージシャンとのコラボやイベントプロデュースも多数。
李政美を高く評価し、自身のコンサートへの招聘やジョイントはもちろん、彼が長く携わってきたフォークイベントの出演者として李政美を推薦してくれることも多い。最近では、MXTVの「小室等の新・音楽夜話」にゲストとして招かれている。李政美とのジョイントでは、“伴奏”も務めることも。オフィィス・キーズ オフィシャルサイト

板橋文夫《ジャズピアノ》

いたばしふみお
1949年、栃木県足利市生まれ。国立音大(李政美の同窓の先輩)在学中よりジャズ活動を始め、渡辺貞夫、日野皓正、森山威男グループを経て、エルビン・ジョーンズのワールドツアー、自己のトリオやオーケストラでの活動、全国の幼稚園や小中学校での演奏、アジア、アフリカ、ブラジルなどの幅広い内外の芸術家との交流など、その活動は多岐多様で、ジャンルを問わない。柳町光男監督「19歳の地図」、若松孝次監督「11.25自決の日」等の映画音楽を担当。現在は、ソロ、若手ミュージシャンとのトリオFIT!などで精力的に全国ツアーを展開中。激しく且つリリカルなピアノは、聴衆の心を打たずにはいられない。
李政美との初ジョイントは2012年1月の横浜ドルフィー。以来、関西、中部、四国などにツアーを敢行し、2013年11~12月には被災地・東北にも。李政美は板橋の“挑発”に応えて、オリジナルも朝鮮民謡でも普段とは違った力強くjazzyな一面を聴かせた。板橋のオリジナル「For You」に李政美が詞をつけて披露している。FUMIO ITABASHI MIX-DYNAMITE

佐久間順平《ギター、ヴァイオリン、ヴォーカル》

さくまじゅんぺい
1953年、神奈川県逗子市生まれ。早稲田大学卒業後、高田渡等と「ヒルトップ・ストリングスバンド」結成。ソロシンガーとして活動する中、高田渡、さとう宗幸、小室等、伊藤多喜雄、ヤドランカ、李政美、南こうせつ等のレコーディングやステージを共にする。2001年以降、南こうせつのコンサートには欠かせないメンバーとなっている。2004年に初のソロアルバム「最初の花」、2013年にセカンドアルバム「明日の想い出」リリース。小林政広監督「白夜」、「春との旅」(ヴォーカルに李政美)など、映画音楽も多く手がけている。
1990年代の終り頃から現在に至るまで、李政美のサポートを数多く務める。ギターの名手。とりわけ、「ありがとういのち」でのエモーショナルなギターは聴くものを鷲づかみにする。また、最近はDUOの「京成線」や「ミリャンアリラン」で、軽妙なヴォーカルを披露。1999年のシングル「朝露/ありがとういのち」「おいでみんなここへ」、2003年アルバム「オギヤディヤ」をプロデュース。Jumpei Sakuma Official Web Site

竹田裕美子《ピアノ、キーボード、アコーディオン》

たけだゆみこ(愛称きんちゃん)
東京都生まれ。1972年「Early Times Strings Band」に参加。ステージデビューはなんと「五つの赤い風船解散コンサート」だった。以来、小室等、白鳥英美子、加藤登紀子、伊藤多喜雄、しゅうさえこ、南正人など、多くのアーティストのステージ及びスタジオワークを幅広くサポートしている。2000年に再結成された「五つの赤い風船」の活動に参加。
李政美との縁は最も古く、NHKのアーカイブで、20代の李政美が歌う「朝露」の伴奏を務めている録画を偶然見る機会があった。いまは廃盤のカセットアルバム「キム・ミンギを歌う」、女だけのロックバンド、女くらぶバンドなどでも一緒に活動。ああ!初めての名古屋ソロコンサート(1996年)でも、サポートはきんちゃんだったね^^/

矢野敏広《ギター、マンドリン》

やのとしひろ
1954年、北海道網走市生まれ。中学時代にフォークソングの洗礼を受け、高校卒業後上京、ライブハウスを中心に活動を始める。1980年、朴保(パクポオ)&切狂言に参加。現在に至るまで李政美、趙博(チョウバク)、盧佳世(ノカヨ)、キムドゥスと共にライブを行っている。2012年4月、ボーカルのnoburoと結成したグループ「うまかしゅう」として、CD「きらめく星座のように」を発表。最近は、昭和歌謡を題材に、ソロ・ボーカリストとしても活動中。2013年3月には韓国の国民的歌手・張思翼(チャンサイク)のサポートを務め、ブルージーな矢野スタイルの真骨頂を発揮する。
李政美がソロ活動を始めて以来、最もサポート出演回数が多いかもしれない。数年前に帰郷してからも、網走からライブやコンサートに駆け付ける。ライヴでの李政美とのやりとりは絶妙の味わい。1997年のファーストアルバム「わたしはうたう」のプロデューサーを務めた。

向島ゆり子《ヴァイオリン》

むこうじまゆりこ
3才よりバイオリン、ピアノを学び、学生の頃より音楽活動をはじめる。その後、伝説的グループ「PUNGO」結成。96年、オリジナル曲を集めた初リーダーアルバム「Right Here!!」を発表。97年、串田和美演出「春の目覚め」で音楽監督をつとめる。幅広い音楽性とアグレッシブなバイオリンが注目され、様々なジャンルでのコンサート、レコーディング活動を行っている。近年はラーシュホルメル、トリスタンホンジンガー、ウイレムブロイカーなど海外のアーティストや、おおたか静流、酒井俊、朝崎郁恵など歌手との共演も多い。
先日は何気なく見ていたBSの番組で、歌う加藤登紀子のバックにゆり子ちゃんを発見した。ドンと片足を前に踏みだす、あの特徴的な演奏スタイルは見紛うはずもなく、メジャーミュージシャンからも引っ張りだこであることを改めて確認する。李政美、竹田裕美子との「女子三楽坊」が奏でる音楽は、とても心地良くのびやかで、心がふわっと解き放たれる。

芹澤薫樹《ウッドベース、エレキベース》

せりざわしげき
1975年静岡県生まれ。幼少より音楽に傾倒し、ピアノ・打楽器を経たのち早稲田大学ハイ・ソサエティー・オーケストラ(ジャズ・ビッグバンド)にてベースを始める。卒業後はフリーのセッション・ベーシストとして、bayaka、荒木一郎、すがはらやすのり、李政美、井上昌己、navy&ivory、TAROかまやつ、人見麻妃子、KOKIA、SUITEVOICEなど様々なアーティストのレコーディングやコンサートに参加する。向井滋春、平賀まりか、川上さとみほか多数のジャズ・ミュージシャンとの共演、羽毛田耕士ビッグバンド、田中さとこTrio、ラテン・フュージョン・グループS.I.Mへの参加など、ジャズ界においても精力的に活動している。
李政美のセカンドアルバム「オギヤディヤ」、ライヴ盤「李政美LIVE2011」に参加。最近は通常のコンサートでのサポートが少ないが、2013年12月東京と、2014年7月大阪の「コヒャンエポムコンサート」には欠かせないメンバーとして参加。Bassist芹澤薫樹

李英愛《舞》

いよんえ Lee Young-Ae
東京都出身の在日韓国人三世。幼い頃より踊りへの想いを抱く。大人になりヨガを始めたことで、なにか内側からの声、身体感覚を感じ始める。09年に祈りの舞に出会い、14年春より、ひとり、舞の道を歩み始める。ご縁をいただく中で、知人のライブ、神社でのご奉納、自然の中、慰霊祭や平和祭などで踊らせていただく。心と身体と魂、大自然とのつながりを大切に、楽しみながら模索探求の日々。生かされていることを忘れずに泣き笑い、舞い踊り、生きていきたいと思っている。


 REFERENCE

女神は大地を踏みしめて立つ――コンサート「ありのままに響きあう」をみる(02.2.22)  ひつじ

李政美(い・ぢょんみ)という歌手を知っておられるでしょうか。

東京は葛飾生まれにして在日コリアン二世。国立音楽大学声楽科の卒業で、大学在学中から高橋悠治の水牛楽団とのジョイントを行うなどライブ活動を始め、数年の休止期間があるものの、現在まで歌い続けています。まだCDは自主制作盤での発表しかありませんが、音大在学中から始めた音楽活動は20年以上になり ます。小室等や永六輔などが注目しているというあたりから、わかる人にはわかる独特の存在感を受け取っていただけることと思います。

緞帳が上がると(1)、ギターを持った李政美をはさんで、下手にピアノ/キーボード、上手にギター/マンドリンという3人。どっぷりフォーク系のコンサートにつかった経験のある私には、なつかしい編成です。ギターのアルペジオにピアノがからみ、それをマンドリンがささえます。息づかいさえ聞こえるような生身の感覚は、300人という小さなホールの特権であるかもしれません。
「こんばんは、李政美です。」ややハスキー気味だが、よくとおる声です。誰に似ているのだろうと思いながらたどりついた名前は、高橋真梨子と渡辺美里の 二人。「本格派」という印象は、さすが音大出身というというところでしょうか。

オープニングで歌われた「京成線」は、李政美自身の作詞・作曲の作品。彼女が生まれ育った葛飾の風景を歌っています。聞き心地のよい曲の間にさりげなくはさまれている「埋もれたままの悲しみ眠る」という言葉は、李政美公式サイトでのコメント(2)によると「関東大震災のときに殺された人の骨が埋められている荒川の土手」のことであり、「川向こうから吹く風」が運んでくる「なつかしい匂い」とは、「墨田区の皮革工業地帯から流れてくる皮のにおい」なのだ といいます。そして、「この町もまたふるさと」という宣言で、この曲は終わります。「また」の一言に在日コリアンとしての微妙な立場が感じ取れますが、それでも「ふるさと」と言い切ってしまうところに、自分自身の生きてきた歴史やさまざまなかかわりをそのままに引き受けてしまおう、という強い意志が感じられます。
「京成線に乗って帰ろう」の意味は、「今日もまた」という意味なのでしょうか。別の場所で暮らしていた自分が決意して帰ろうという意味なのでしょうか。 いったんはイタリアオペラを学ぶも「西洋音楽を勉強することに疑問をもち」(3)、自分の歌を歌い始めた李政美の世界を凝縮したような一曲でした。

もう一曲紹介しておきましょう。「ありのままの自分を愛しさえすればいい」というフレーズ何度も出て来るやさしい曲、「ありのままの私」(作詞・作曲/ 李政美)です。この曲を李政美は、「廃品回収業の娘であり、朝鮮人であることがどこか誇りに思えなかった少女時代の自分を思い出して作った」(4)と紹介していました。
「ありのままの自分を愛しさえすればいい」というメッセージには、近年人権学習の場でしばしば強調される「セルフ・エスティーム」(自己肯定感情)との共通性を感じさせます。自分自身を認めることが自分の人権を回復するための第一歩であり、さらに他者の人権を尊重することにつながるといいます。そんな理 論の説明をするよりも、この曲を聞くことのほうがずっとわかりやすい癒しの一曲でした。

と、こう書くと、李政美が在日コリアンの立場を強調して、マイノリティの目線で作られた歌ばかりを歌っているように見えますが、そうではありません。続いて歌われた、「みんなちがって、みんないい」で知られている金子みすゞの「わたしと小鳥とすずと」、「ポッカリ月がでましたら」の冒頭のフレーズが印象的な中原中也の愛の詩「湖上」、在大阪コリアンの詩人・宗秋月(チョン・チュウォル)が娘の結婚式の時に贈ったという詩「遺言」。これらの作品に李政美は 自分で曲をつけて歌っています。チリの民族音楽運動家ヴィオレータ・パラの作品「ありがとう、いのち」は、学生時代に出会い現在まで歌い続けている大切な歌だといいます。(5)

このことは、李政美が自分のメッセージを伝えようとする「ソングライター」であることよりも、メッセージをきちんと伝えてみせる「シンガー」であることを大切にしていることを示しているといってよいでしょう。すばらしい歌があればそれを歌いたい。気に入った詩がみつかれば、それに曲をつければ歌うことができるじゃないか。そんな歌うということへの強い思いが見えてきます。
あるいは、「歌う」ということに対する絶対的な自信の現われであるかもしれません。もともと曲をつけられることを前提としていない近現代の詩であって も、メロディさえつけてしまえば、歌うことさえできれば、その詩の世界を確実に伝えることができる。歌うということが、李政美にとっては伝えるということなのだ。そんな確信さえ感じられました。

いつのまにか李政美はギターを置いて、舞台中央に立っていました。思いのほか長身で、しかも筋肉質のしっかりした体格の李政美は、威風堂々としてなかなかの貫禄です。たまたまだったのか意図的だったのか(音楽の授業で習った正しく歌う姿勢そのままに)肩幅に足を開いて立つさまは、大地を踏みしめているよ うな感覚さえありました。

さて、ふたたび「言葉」の話に戻ります。韓国語を話せる李政美は、韓国の民謡やフォークソングも歌います。コンサートの後半では、自らチャンゴを叩きな がら、アリラン(6)を数曲歌いました。このアリランという言葉自体がそうらしいのですが、韓国の民謡にはときどき日本語には訳せない囃子言葉のような言葉がでてきます(冷静に考えると、日本の民謡も同じです)。そして、李政美の書く日本語の詞にも、しばしば韓国語に連なる訳されない/訳せない言葉が混じっています。

先に紹介した「京成線」でも、曲の最後に「エヘイヨ」という言葉が二度繰り返されます。また、歌詞にはないにもかかわらず、曲の途中でも「いくつものアリラン峠、(エヘイヨ)越えて」と歌われています。それは、聞いている側にとっては、「やれやれ」というため息まじりに近いもののように思えました。あるいは、コンサートの最後に歌われた「オギヤディヤ」は題名からしてそうです。繰り返し歌われる「オギヤディヤ オギヨチャー」という言葉は船出の時の掛け声であるらしく、軽快な曲調に乗せて船出の希望が歌われています。こうした(少なくとも私には)意味のわからない言葉の数々は、歌の調子を整えてくれるば かりではなく、意味がわからないにもかかわらず言葉以上に歌の気分を運んでくれます。

そうした意味でこのコンサートで一番印象深かったのが、「あなたの墓のそばに」でした。この曲は、韓国でベストセラーになり映画化もされたト・ジョンファンの詩集「立葵のあなた」の中の一篇を、李政美自身が訳し、曲をつけたものです。
短い四節八行のの詩を、李政美は二つに分けました。前半を韓国語で、後半を日本語で歌うことにしました。そして、それぞれの二節の後に、李政美は「スキャット」をつけました。そこにはト・ジョンファンが用意した「言葉」はありません。李政美が「あなたの墓のそばに」を歌うためには、ト・ジョンファンの 詩は短すぎたのです。
静かに流れるように歌い上げる賛美歌のように始まった曲は、「詩」が終わったあとも長く歌われました。ト・ジョンファンの「あなたの墓のそばに」が終わっても、李政美の「あなたの墓のそばに」は終わらなかったのです。「アイヤー アイヤー」頭上から降り注ぐ光をうけて静かに手を広げる李政美の姿には、 神々しささえ感じました。

よもや歌詞のない歌声に、これほど感動してしまうとは思いませんでした。それまでも、「歌う」ということの力を強く感じさせてくれた李政美ですが、この一曲で純粋な意味で「歌う」ことだけで到達することができる高みを、改めて指し示してくれたように感じました。

李政美、くせになります。そして、何よりよい出会いでした。


(1) 実は、前座として地元の若者によるサムルノリが出演した。「サムルノリ」はもともと四つの打楽器による伝統的な農楽をステージで演奏するグループ名だったが(私も岡林信康とのジョイントで来日したときに見たことがある)、その国際的な活躍により一般名詞になったらしい。当日は、楽器紹介もあって、小さなフライパンのような大きさの鉦「ケンガリ」が「雷」を、小型のドラ「チン」が「風」を、肩から下げる太鼓「ブク」が「雲」を、やはり肩掛けの大型の鼓のような「チャンゴ」が「雨」を表していることを教えてもらった。思い込みかもしれないが、時おりみせるスキップのような動きが、韓民族の「騎馬民族」の側面を表しているように感じられた。
(2) 李政美公式サイト「李政美の世界」内「全歌詞コレクション」ぺージにつけられたコメント。
(3) かつて、李政美公式サイト「李政美の世界」内「李政美のプロフィール」ページに 書かれていた言葉。今は「国立音楽大学在学中から朝鮮民謡、フォークソング、フォルクローレなどをうたいはじめ」と書かれている。かつては、西洋音楽を捨てて自分なりの音楽世界を創り上げることにある種の気負いがあったのかもしれないが、今はそんな経過も自分の中であたりまえのものとなっているのだろう。
(4) コンサートでの李政美のコメント。李政美は、「朝鮮人」という言葉を国籍を越えた民族を表すものとして意図的に使っている。また、この言葉を日本人が後ろめたくて素直に使えないことも意識している。
(5) ヴィオレータ・パラについては同じく「李政美の世界を深める」ページの注釈に詳しい。
(6) いろいろ調べてみたが、「アリラン」の意味ははっきりしない。「アリラン」という日本でもよく知られている曲があることも間違いないし、地方ごとにさまざまな「アリラン」と呼ばれる民謡があることも確かである。さらに、どこかにある峠の名前だとも、そんな地名はないから、心の内の幻の峠の名だとも、峠に結びつけること自体が俗説とも言われている。「峠」というとき、日本占領下や南北分断による引き裂かれ体験が意識されているようである。


「よろず感想処・ひつじ亭」より

本物の歌、キム・ミンギの歌  小室等(ミュージシャン)

イ・ヂョンミさんの「キム・ミンギを歌う」というテープを聴いた。
イ・ヂョンミさんの歌を聴くのは初めてだった。素晴らしかった。心のこもった本物の歌だ。すっかり気にいってしまい、毎日一度は車のなかで聴いている。
ぼくに朝鮮語がわかるわけではないのに、朝鮮語で歌うイ・ヂョンミさんの歌は、わかってしまうのだ。
少したってから、このテープのレコーディングに参加したキーボードの竹田裕美子さんが、全曲の日本語訳を貸してくれた。その日本語訳を見ることで、ぼくがイ・ヂョンミさんの歌に感じたことを裏付けることはあっても、くつがえすこ とはひとつもなかった。
それにしても、イ・ヂョンミさんがこんなにも心をこめて歌うことのできる、 韓国にいるキム・ミンギという人はどんな人なのでろう。
「朝露」という曲が入っている1971年に製作されたキム・ミンギのテープ を聴くことができた。
やっぱり、本物の歌だった。素直に、必要があって歌っている歌だった。
キム・ミンギの歌は、日本で言えばフォークというようなジャンルに分類され るのであろうが、本質的にはまったく別のものだ。日本でのフォークと呼ばれた音楽は、もともと親のすねかじりの無責任な正義感ソングだ。戦後の(経済)戦 争成金、札ビラばらまき、あっちのファッションこっちのブランドとお色直しは尽きることを知らない。衣を着けるところの本体をかえりみることなく、ひたすら衣替えに夢中になっている我らがフォークにひきかえ、キム・ミンギの歌は自分への切実な問いかけになっている。
(1994年)

「朝露」と金敏基さんのこと  李政美

「朝露」という歌が、日本でたくさんの人々に愛され歌われつづけてきたことを、ほとんどの韓国の人たちは知らないだろう。
私がこの歌にはじめて出会ったのは、19歳の時だった。1980年の光州事件の前後、日本では韓国の民主化運動に連帯する運動が盛り上がり、週に何度もどこかで集会やデモが行われていた。音楽大学に通っていた私も、友人に誘われて集会に参加するうちに、壇上にあがって歌うようになっていた。集会では、「朝露」や「金冠のイエス」、「ソウルへ行く道」などの金敏基さんの歌をはじめ、その当時韓国で歌われていた抵抗歌や、在日韓国人政治犯の家族がつくった歌などを歌った。やがて運動は下火になり、音大を卒業する頃には、集会で歌うこともほとんどなくなっていた。
'87年に「金敏基」という本が日本で翻訳、出版されるのに合わせて、金敏基さんの歌を集めたカセットテープをつくることになった。そのテープには、11曲が収められている(新幹社刊、絶版)。
金敏基さんにはじめて東京でお会いしたのはいつだっただろうか。まだ幼かった娘とふたりで暮らすようになったばかりの頃だから、'90年か'91年のことだったかもしれない。その頃金敏基さんは新しいミュージカルの構想中で、私に韓国へ来て歌うつもりはないか、という話しをされたような気がする。(でくの坊で、歌を歌うしか能がない私がミュージカルなどできようもないが)人前で歌うことをあきらめようと思っていた私は、あっさりその話しを断ってしまった。
それから数年後、私は「屋久島」に暮らす詩人山尾三省さんと彼の詩「祈り」に出会い、その詩に曲をつけたのをきっかけに、また歌を歌いはじめるようになる。たったひとつの歌を歌うことからはじまって、今こうして日本列島の津々浦々に出かけ、たくさんの人と出会い、共感できるようになるとは、その頃は夢にも思っていなかった。
昨年の5月、山尾三省さんの「ここで暮らす楽しみ」という本が韓国で出版されることになり、その本の中で私に三省さんとの思い出を書いて欲しいという依頼がきた。そのご縁で、6月にソウルにパンソリの勉強に行った折りに、その本を翻訳されたイバン先生に招かれ、はじめて原州を訪れることになる。イバン先生の知り合いの方や生活共同組合の方々との食事会に、金敏基さんもいらっしゃるというので、どんなに驚いたことか。食事会の後、皆でチャンイルスン先生のお兄さまの別荘で、語り、歌い明かした。はじめてお会いしてから10数年後に、ようやく金敏基さんと「出会う」ことができたような気がした。そして、私の歌のふたつの原点である「朝露」と「祈り」が、原州の地で結ばれたことに、不思議さと感謝の気持ちでいっぱいになったのだった。
山尾三省さんは、2001年8月、癌のために亡くなられた。去年、残された夫人の春美さんにお会いした時、三省さんが亡くなられた後、毎日車で町に仕事に行く道すがら、私がライブで歌った「朝露」のテープをすり切れるほど聞きながら泣いたという話をしてくれた。その歌に助けられたとも。
真にすばらしい歌は、人の心をなぐさめ、生きる勇気を与える力を持っている。そんな歌が世の中にどれほどあるだろうか。私がコンサートで「朝露」を歌う時、この歌が誰によっていつの時代につくられ、どんな状況で人々に歌われてきたかということを説明するまでもなく、歌った途端に人々の心の中に深く染みこんで行くのをいつも感じる。きっと「朝露」は、何年、何百年経っても、民族や国境を越えて人々に歌い継がれて行くだろう。そんな歌に出会えたことに心から感謝する。
そして、今日、ここ原州で歌うことは、私にとってまたひとつの出発点になるだろう。


(2003年12月 韓国・原州コンサートのパンフレットより)

金敏基とはどういう人物か  趙英男(チョヨンナム・歌手)

ソウル大絵画科を卒業した画家? そうかな?
「朝露」の曲を作り、自分で歌った音楽家? ときおり野良仕事をしているという噂どおりなら、農夫? そうかな?
そうでなければ、扇動家? そうかな?
酔っぱらい? 全部、そうかな?だ。
最初にわたしの目に写った金敏基は、卓越 した音楽家であった。それは彼が「朝露」作った手腕をみればよい。
しばらく後、わたしが軍隊に行き、外国に行っている間に、彼が送ってくれた 慰問の手紙によって、わたしは彼が卓越した文章家であることも知った。その数 通の手紙によって、金敏基は、朝鮮語を誰よりもネチネチと書き綴ることができ る金芝河(キムジハ)や、朝鮮語にぴったり朝鮮のリズムに乗せて文章を綴るこ とのできる呉太錫(オテソク)や、朝鮮語に一番美しい翼をつけて雲の果てまで 飛ばせてみせる李済河(イデェハ)の文章に匹敵する技術を持っていることを確 認したわけだ。
もちろん、わたしの説がかたよっているという非難はありうるだろう。しかし 、この世のどこにどちらにも偏らない公正な評価というものがあるというのか。 わたしの説が偏っているかどうかを議論するよりもまず、「朝露」の歌詞をもう 一度じっくりと読んでみることを勧めたい。断言するが、韓国歌謡100年の歴 史を通して3本の指に入る歌詞なのだ。
本当の詩は、うたのことばでなくてはならない。書いた人もわけがわからない 詩が100編あってもしょうがない。
プーシキンの「人生を如何にせん」が他にあるか。ユントンジュの「死の日ま で天を仰ぎ」が他にあるか。キムソウォルの「薬山のつつじ」が他にあるか。「 朝露」は、その歌詞だけをとりあげれば、これらの詩と双子の関係にある。韓国 の心ある若者たちが、十年一日のごとく「朝露」をつぶやき続けている理由も、 まさにここにある。
3部に分けられたこの曲に流れは、ちょっと見ただけでは西洋臭い曲調に感じ られるかもしれないが、その骨格はわが伝統音楽の宮・商・角・徴・羽(朝鮮 伝統音楽の五音の名称)にあっているのだ。ハ長調と仮定するとき、へ音とロ音が西洋式に流れているようにみえるが、それは単なる経過音にすぎず、結果的に 朝鮮の純粋な節回しのうえに西洋の明るい旋律が添加された、このうえなく理想 的な曲となっている。
「朝露」はラジオで放送されたこともなく、テレビで歌われたこともない。し かしロサンジェルスで、ニューヨークで、韓国のことを憂える若者はみな歌った 。この曲の主人が、まさに金敏基なのだ。
(1986年3月)

Violeta Parraについて

パラは、チリのヌエバ・カンシオン運動の先駆者でもある。1952年頃から民謡の研究を始め、ギターを弾きながら歌を歌い、チリ各地の農村や鉱山地帯を歩き回り、うずもれていたたくさんの歌を拾い集めた。そうした歌の中には、力をもたない民衆の生活からにじみ出るような切実な訴えの歌があり、その訴えをビオレータは身をもって知ることとなった。1964年、ビオレータは自分の家を「パラ家のペーニャ」(ペーニャとはライブハウスのようなもの)とし、そこに集う歌い手たちが民衆の声「ヌエバ・カンシオン」を歌った。そのペーニャに集う一人にビクトル・ハラ(1938~1973)がいた。彼はヌエバ・カンシオンの運動の中心的担い手となる。1970年、人民連合が民衆の支持を得て選挙に勝利し、アジェンデ政権が誕生し、民衆のためのアジェンデの政策にパラは熱心に協力することになる。しかし、チリでは1973年にアジェンデ政権は悲劇的な結末を迎えた。軍部によるクーデターが起こり、アジェンデ大統領は殺害され軍部による独裁政治が始まった。このとき、ビクトル・ハラも捕まり、 彼は捕まった仲間を歌で励まそうとし、歌いながら殺された。他にも多くの歌い手が国外追放になった。


Violeta Parraのサイトへ(スペイン語/「Gracias a la Vida」が聴けます)

山尾三省「祈り」 ━━ブログ「姐御日記」より

先日、「朝まで生テレビ」で、勝間和代さんが、みんな過剰に原発を恐れていると言っていました。
「だって原発では誰も死んでいないじゃないですか」
……この感覚。本心から言ってるとしたらお笑いです。
猪瀬直樹さんは、原発は日本で一番の輸出産業だから「さらに安全のハードルをあげて、早く世界を安心させないと、これからは売れない」といった内容の発言をされていました。
この期に及んでまだこんなこと言ってる……。
………………
そんなとき、車にのって久々に入っていたMDを流したら、李政美(イ・ジョンミ)さんの歌が流れてきました。
ずうっとMDなんて聴いてなくて、何が入っているかも忘れていたのに…。
「祈り」でした。
山尾三省の詩がジョンミさんの透明な声に乗って、心に響いてきました。

  「祈り」

  南無浄瑠璃光  海の 薬師如来
  われらの 病んだ 心を 癒したまえ
  その深い 音の呼吸で 癒したまえ

  南無浄瑠璃光 山の 薬師如来
  われらの 病んだ 欲望を 癒したまえ
  その深い 青の呼吸で 癒したまえ

  南無浄瑠璃光  川の 薬師如来
  われらの 病んだ 眠りを 癒したまえ
  その深い せせらぎの音で 安らかな枕を 癒したまえ

  南無浄瑠璃光 街の 薬師如来
  われらの 病んだ 科学を 癒したまえ
  科学をして 命に奉仕する 手立てと為したまえ

  南無浄瑠璃光 大地の 薬師如来
  われらの 病んだ 文明を 癒したまえ
  その深い 青の呼吸の あなたご自身を 現したまえ

……「科学をして命に奉仕する手立てと為したまえ」
車の中で、「知ってしまった日本」の使命を思いました。
いま、国境を越えて世界中から集まっている支援の力を、新しい未来への一歩のために使ってほしい。
山尾三省ナナオサカキも、この大惨事を見ないまま逝ってしまいました。
彼らにはきっと何かが見えていたんでしょうね。
(2011年3月29日)


出版社「オフィスエム」の社長・寺島純子さんのブログ「おひかえなすって!!姐御日記」より

子供達への遺言・妻への遺言  山尾三省

僕は父母から遺言状らしいものをもらったことがないので、ここにこういう形で、子供達と妻に向けてそれ書けるということが、大変うれしいのです。というのは、ぼくの現状は末期ガンで、何かの奇跡が起こらない限りは、2、3ヶ月の内に確実にこの世を去って行くことになっているからです。
そのような立場から、子供達および妻、つまり自分の最も愛する者達へ最後のメッセージを送るということになると、それは同時に自分の人生を締めくくることでもありますから、大変身が引き締まります。

まず第一の遺言は、僕の生まれ故郷の、東京・神田川の水を、もう一度飲める水に再生したい、ということです。神田川といえば、JRお茶の水駅下を流れるあのどぶ川ですが、あの川の水がもう一度飲める川の水に再生された時には、劫初に未来が戻り、文明が再生の希望をつかんだ時であると思います。

これはむろんぼくの個人的な願いですが、やがて東京に出て行くやもしれぬ子供達には、父の遺言としてしっかり覚えていてほしいと思います。

第二の遺言は、とても平凡なことですが、やはりこの世界から原発および同様のエネルギー出力装置をすっかり取り外してほしいということです。自分達の手で作った手に負える発電装置で、すべての電力がまかなえることが、これからの現実的な幸福の第一条件であると、ぼくは考えるからです。

遺言の第三は、この頃のぼくが、一種の呪文のようにして、心の中で唱えているものです。その呪文は次のようなものです。
 南無浄瑠璃光・われらの人の内なる薬師如来。
 われらの日本国憲法の第9条をして、世界の全ての国々の憲法第9条に組み込まさせ給え。武力と戦争の永久放棄をして、すべての国々のすべての人々の暮らしの基礎となさしめ給え。

以上三つの遺言は、特別に妻にあてられたものなくても、子供達にあてられたものでなくてもよいと思われるかもしれませんが、そんなことはけっしてありません。

ぼくが世界を愛すれば愛するほど、それは直接的には妻を愛し、子供達を愛することなのですから、その願い(遺言)は、どこまでも深く、強く彼女達・彼ら達に伝えられずにはおれないのです。
つまり自分の本当の願いを伝えるということは、自分は本当にあなたたちを愛しているよ、と伝えることでもあるのですね。

死が近づくに従って、どんどんはっきりしてきてることですが、ぼくは本当にあなた達を愛し、世界を愛しています。けれども、だからといって、この三つの遺言にあなたがたが責任を感じることも、負担を感じる必要もありません。

あなた達はあなた達のやり方で世界を愛すればよいのです。市民運動も悪くないけど、もっともっと豊かな”個人運動”があることを、ぼくたちは知ってるよね。その個人運動のひとつの形としてぼくは死んでいくわけですから。


『MORGEN』2001年7月7日号より転載

李政美meets板橋文夫DUO 2012.6.18 名古屋TOKUZO  6_6taka

歌の力を強く感じ、その力が直接涙腺に響くステージとなりました。昨夜のステージが今回のツアーの最終日となるとの事。板橋文夫さんを聴きに行った僕としては、李政美(イ・ヂョンミ)さんの歌の力は新鮮な驚きでした。姿勢を正して丁寧に歌う歌の力が直接心に届き、時として涙腺を刺激します。スィングしなくてもとても心に残るライブでした。

お店に入ったのが7時頃。その時もう8割くらいの席が埋まっていて、僕はカウンタの一番ステージに近い席に座りました。7時40分くらいに板橋さんが登場。まず1曲目、「原発反対!ああ飯館村」のソロでスタート。いつも通りガンガン最初から飛ばしていくステージ。
熱いピアノソロが終わると李さんが登場。「セノヤ」を歌い出しました。韓国語の歌詞で何を言っているのか全く分かりませんが、声が素直に心に入ってきます。李さんは東京葛飾区生まれの在日コリアン二世だとか。曲は「京成線」「せつなさのむこう」と続き、1Stの最後が「Summertime」。曲に入る時のフレーズが「GoodBy」を思い出させました。李さんの歌からスィング感は感じられず子守唄を聴くような不思議な感じがしましたが、すごく心地よく歌を聴くことができました。

ステージのMCで李さんが「6日間すごく充実したステージでした。初日は相手の出方を伺いながらの格闘技、今は合気道でしょうか」なんて話していましたが、2人のミュージシャンがお互いをRespectしあいながら全力をぶつけて演じているのが分かります。

2ndステージは「あなたの墓のそばに」「ひでり」、韓国語の歌(曲名不明)と続きます。途中で李さんがチャンゴ(紐のついた太鼓)を打ち鳴らしながら客席に降りてきました。お客さんの中には在日の方が多くおられた様子で、李さんの歌に合わせて小声で歌っている方を何人も見かけました。ステージには板橋さんが一人残り「渡良瀬」を弾くと、客席にいた李さんが歌いながらゆっくりとステージに上がってきます。お客さんは皆神妙に姿勢を正して歌を聴いています。すごく幸せな感じ。「What a Wonderful World」の途中ではマイクを向けられた板橋さんがサッチモのまねをしてダミ声で歌います。アンコールの歌はビートルズの「When I am Sixty-Four」。この間、Lovely(管理人注釈*名古屋のジャズライヴハウスの老舗・東桜のジャズインラブリー)で梅津和時さんと板橋さんが演奏したときもアンコールはこの歌だったけれど、李さんも梅津さん同様に板橋さんの学校の後輩のようです。

とても不思議なライブでしたが、すごく幸せになれました。それと随分お酒がすすみました。 いい音楽を聴くと飲みすぎてしまうようです。


「6_6takaのブログ」(名古屋在住の6_6takaさんによる音楽ライブ見て聴いてブログ)より転載 *写真も

唄を浴びる~板橋文夫・李政美 DUO 2013.10.3 名古屋TOKUZO  6_6taka

李政美さんの唄の凄さを全身で感じた夜となりました。力強く美しい李さんの歌声は肌を通り抜けて心の柔らかい部分に達し、時として僕の涙腺を刺激しました。唄を聴くにつれ、心が洗われるような不思議な心地よさを感じました。

昨年初めてこの二人のDUOを聞いたのも、ここ得三でした。板橋さんの強烈なピアノに対して歌声で互角に渉り合う李さんの姿を見ながら鳥肌が立った記憶があります。その時も李さんが「毎日が戦いの連続です」と話しておられましたが、おそらく凄いステージになるだろうと楽しみにしながらお店に行きました。

お店の階段を上るところで既に李さんの歌声が聞こえてきました。お店は満席かと思っていたら、所々に空席もあり比較的ステージに近いテーブル席に着くことができました。
1年ぶりに聴く「京成線」では冒頭に書いたように唄の浸透力を感じました。「Gracias a la Vida(ありがとういのち)」、「あなたの墓のそばに」と歌った後、板橋さんの「For You」に李さんが歌詞を着けて歌いました。2ケ月ほど前、このステージで寺田町さんが同じ歌を歌ったけれど、李さんの「For You」の歌詞はストレートに心に届く感じがしました。

休憩を挟んで、板橋さんが登場。赤いポロシャツに着替えて、原発反対!シリーズの新しい曲と話ておられましたが、「希望の牧場」を演奏。曲の途中で立ち上がり、右手で鍵盤ハーモニカ、左手でピアノを弾きながら力強くピアノを弾きます。李さんが登場し、宮沢賢治の作った「星めぐりのうた」を披露。冬の夜空を想起させるような広がりを持った歌になっていました。ここでチャンゴを肩にかけ、「ひでり」を歌います。チャンゴを叩きながら歌うと、彼女の歌にさらに力強さが増すように思いました。朝鮮民謡のアリランでは珍島アリラン、密陽アリラン、アリランと3種類を歌いましたが、途中客席でオジサンとオバサンが立ち上がり歌にあわせて踊りだしました。最後の曲は板橋さんの名曲「渡良瀬」でしたが、板橋さんが全身でピアノを叩き続けるのに対して、歌声だけで渉りあう李さんの力強さに圧倒されました。
アンコールは「What A Wonderful World」 (途中で歌詞が日本語になりました)、板橋さんのピアノに合わせてスキャットで歌う即興のブルースの2曲。

充実した素敵なステージになりました。この二人のライブは要チェックです。


「6_6takaのブログ」(名古屋在住の6_6takaさんによる音楽ライブ見て聴いてブログ)より転載 *写真も


 BOOK

私たちは幸せになるために生れてきた  朴慶南

願生(がんしょう)――願って生まれ、願って生き、苦難を背負った人々とともにあることを願い、よりよく生きられる世の中を願うこと。どんな困難をも糧として生きる人々との出会いを、朴慶南(ぱくきょんなむ)さんがしなやかで柔らかな文章で綴ったエッセー集。
「歌手、李政美さんの心の旅」という章で、李政美の来し方が語られています。

単行本 毎日新聞社 2011年11月刊 1,512円 amazonで購入
文庫本 光文社知恵の森文庫 2014年3月刊 842円 amazonで購入
kindle版 600円 amazonで購入 

誰が平和を殺すのか  佐高信

佐高信の“いまの日本を暴く”最新対談集。巻頭に亀井静香を登場させ、「今の政治家は戦前を知らなさすぎですよ。それで日韓関係などバカなことを言うなということですね。従軍慰安婦問題もそうです。当時、韓半島から何十万という男女が日本列島に連れてこられ、男性は炭鉱の奥で働かされて、抵抗したら殺されたんですよ」と語らせる。
李政美は小室等とともに「日本人が『イムジン河』を歌う違和感」について語り、この場で初めて自分で詞をつけた「イムジン河」を歌う。
大西巨人、ピーター・バラカン、落合恵子、井上陽水、矢野顕子、湯浅誠、山田太一、梁石日ほか。

七つ森書館 2014年11月刊 1296円 amazonで購入

永六輔の芸人と遊ぶ  永六輔

永六輔が人選した10人の芸人たち。伝統芸能の世界で新しい道を模索する芸人、小劇場を中心に活動する芸人など、彼らに共通するのは現代を表現しようとする姿勢。その彼らの言葉から日本の芸能の本質を探りだす。
李政美――歌 峠の向こうから聞こえる声
他に、茂山千之丞(狂言)、林家正楽(紙切り)、神田北陽(講談)、江戸家まねき猫(動物ものまね)、入船亭扇橋(落語)、おすぎとピーコ(話術)、福尾野歩(遊び歌)、デュークエイセス(合唱)、野坂昭如(歌う直木賞作家)

サライブックス 2001年10月刊 現在、中古品が購入可能となっています

  
 Movie(chosen from YOUTUBE)

星とたんぽぽ ―2013.8.23 石川県小松・称名寺


毎年8月恒例の、石川県小松市のお寺・称名寺コンサート。これはその第10回の映像から。金子みすゞの詩「星とたんぽぽ」は、李政美のメロディと出会って、その世界をさらに近しいものにした。弱いもの、小さいもの、隠れて見えないものたちにこそ本質が宿ると。その痛みを知る眼差しがしみじみと胸を浸す。


2013年8月23日(金) 李政美コンサート at 称名寺VOL.10 石川県小松市称名寺
with 竹田裕美子 (Pf).矢野敏広(Gt)
ライセンス:yama66saku
コンサート主催:fun fan ネットワーク

ねがい~朝露 ―2009.4.17 ソウル・女性プラザアートホール「願い」コンサート


ソウルのコンサートでの「ねがい」と「朝露」なので、全編ハングマル。「朝露」のオープニングで流れるのは、20年間続けた定時制高校の必修「朝鮮語」の最後の授業風景。さらに俳優クォンヘヒョ氏とのデュエットと、たいへん貴重な映像が見られる。


2009年4月17日(金) 韓国語版CD発売記念コンサート―念願― ソウル女性プラザ・アートホール“春”
with 佐久間順平(Gt)、港大尋(Pf)、向島ゆり子(Vl)
ライセンス:にしやまのぼる

愛の讃歌 ―2011.2.25 かつしかシンフォニーヒルズ・アイリスホール


2枚組アルバム「李政美LIVE2011―いのちの讃歌」に収められ、テーマ曲となった「愛の讃歌」。日本で最もポピュラーな岩谷時子の訳詩ではなく、李政美がエディット・ピアフの原詩により忠実な詩を施し、エモーショナルな一曲とした。


2011年2月25日(金) 李政美コンサート―この町もまたふるさと  かつしかシンフォニーヒルズ・アイリスホール
with 佐久間順平(Gt)、竹田裕美子(Pf)、向島ゆり子(Vl)、芹澤薫樹(B)
ライセンス:にしやまのぼる
コンサート主催:アジアート11

遺言 ―2011.2.25 かつしかシンフォニーヒルズ・アイリスホール


短いフレーズの中に、いつか(人生の)荒野に立つであろうわが子への切なる思い、母なる命へのメッセージが詠みこまれた宗秋月(チョンチュウォル)の「遺言」。李政美の曲はこの詩の心をさらに生き生きと伝え、余韻となっていつまでも心に残る。


2011年2月25日(金) 李政美コンサート―この町もまたふるさと  かつしかシンフォニーヒルズ・アイリスホール
with 佐久間順平(Gt)、竹田裕美子(Pf)、向島ゆり子(Vl)、芹澤薫樹(B)
ライセンス:にしやまのぼる
コンサート主催:アジアート11

イマジン ―2009.8.22 ムジカ研究所・長野県八ヶ岳合唱講座


ムジカ研究所の合唱講座での「イマジン」。ジョン・レノンの曲の力はもちろんあるが、李政美の日本語詩は心にすっと沁みこんでくる。


2009年8月22日(土) ムジカ音楽・教育・文化研究所合唱講座 長野県原村八ヶ岳のペンション
with 矢野敏広(Gt)、向島ゆり子(Vl)、芹澤薫樹(B)
ライセンス:komorebi0013
講座主催:ムジカ音楽・教育・文化研究所

ミリャン・アリラン with 小室等 ―2011.6.5 仙台市とっておきの音楽祭


大震災の年の初夏に行われた「仙台とっておきの音楽祭」にて。小室等が歌う「ミリャン・アリラン」は必聴。


2011年6月5日(日) とっておきの音楽祭(仙台市民広場)
with 小室等(Vo. Gt)、 矢野敏広(Gt)
ライセンス:Tadahiro Kumagai
イベント主催:とっておきの音楽祭実行委員会SENDAI

イムジン河 ???(???)―2014.7.25 ソウル・さらば停戦協定平和コンサート


“放送自粛曲”“発売禁止曲”だったのに、69年以降広く愛唱された「イムジン河」(フォーク・クルセダーズ版)は、元々は北朝鮮のプロパガンダ曲としてつくられたそうだ。李政美は、朝鮮学校で歌った「???」も、フォークルの日本語詞も、どちらにも違和感があって、リクエストされても長く歌えずにいたという。いま歌っている「イムジン河」の歌詞は、李政美が思いを込めて独自につけたもの。


2014年7月25日(金) 2014さらば、停戦協定 平和コンサート―銃より花― ソウル・カトリック青年会館CYシアター
with 佐藤行衛(Gt)
ライセンス:Munermi

セノヤ ???(???)―2014.10.17 済州島・JEJU平和祭


1970年にヤンヒウンが歌いヒットした「セノヤ」は、詩人コウンの詩、キムガンヒ作曲のフォークソング。最近も韓国ドラマ「グロリア」でペドゥナがア・カペラで歌うなど、広く歌われている名曲だ。李政美は緩急のある堂々とした歌唱に仕上げている。


2014年10月17日(金) JEJU平和祭2014 韓国済州島馬体験公園
with 竹田裕美子(Key)
ライセンス:amanakuni
イベント主催:『済州島平和感謝祭』実行委員

生きようよ ―komorebiスペシャルバージョン


「いのちの授業をもう一度」の著者で養護教諭だった山田泉さん(2008年11月21日死去)の詩に李政美が曲をつけた「生きようよ」は、アルバム「李政美LIVE2011」にも収められているが、komorebiさんがアニメ仕立てにしたこの動画のバックに流れているのは、場所・コンサートタイトルも分からないが、小さなライヴ会場で披露されたもの。挿画は山ん葉さん。


with 矢野敏広(Gt)
ライセンス:komorebi0013

京成線 with 板橋文夫 ―2013.9.29 大阪・B-ROXY


日本を代表するフリージャズピアニスト・板橋文夫とのDUOツアーの初頭を飾るライヴにて。李政美の代表曲「京成線」がスィングしている、稀有な記録。


2013年9月29日(日) 板橋文夫with李政美DUO 大阪市中央区日本橋・ジャズバーB-ROXY(ビーロキシー)
with 板橋文夫(Pf)
ライセンス:松本政子
ライブ主催:bin