Diary 2004. 3
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3月5日 (金)  都立南葛飾高校定時制卒業式

大学卒業から去年の3月まで、20年間朝鮮語の講師として務めた南葛で、最後に教えた学年の生徒達の卒業式に来賓として出席。

私が南葛の生徒だった時の恩師木川先生のクラスでは、卒業式の数週間前から毎日放課後にホームルームが行われていた。私もゲストとして招かれ、生徒たちの討論に参加。本名で4年間過ごしたソンチョルが大学進学後も本名で生きていくかどうかという悩みを、他の生徒たちも自分のこととして受け止め、夜中まで真剣に話し合う場面に立ち会わせてもらった。

卒業生入場後、会場の体育館には「君が代」のテープが流れ、壇上には校旗の横に「日の丸」が掲げられていた。南葛での20年間一度も見たことがなかった光景だ。数人の生徒が、「君が代」が終わった後に入場。
恒例だった、校長が生徒ひとりひとりの席をまわって卒業証書を贈る場面も今年は無し。
来賓の教育委員会の先生の挨拶、卒業生の会の会長の挨拶、校長の挨拶、と続く。役人の言葉は、どうしてこうも空々しく聞こえるのだろうか...。4年間(或いはそれ以上)働きながら精一杯学んで卒業していく生徒たちに、自分の言葉、自分の声で語りかけることはできないのだろうか。唯一、卒業生の会の会長の、先輩としての挨拶が心に深く響いた。
在校生の送辞のあと、卒業生代表3人が答辞を読む。それぞれがこの学校との出会い、学校で学んだこと、これからの抱負を自分の言葉で語る。南葛の卒業式のハイライトだ。そのうちのふたりの生徒が、自分たちの卒業式が「日の丸」「君が代」で台無しになってしまったこに抗議をする。校長や管理職、教育委員会の人たちはどんな気持ちで聞いたのだろう。
最後に卒業生に贈る歌。矢野さんも応援に駆けつけてくれて、「イマココニイルヨ」を歌う。今日は日本語、朝鮮語、中国語、スペイン語で。南葛には、様々な国籍の生徒たちがいる。次に卒業生たちと一緒に、朝鮮語の授業で一緒に歌った「朝露」を歌う。
今ここに共にいる喜び...
かなしみを越えて、自分の足で立ち、歩いていくように...
いろんな想いをこめて。

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3月16日 (火)  韓国(ソウル、清州、釜山、慶州)の旅1

3/16日から23日まで、韓国(ソウル〜清州〜釜山〜慶州)へ旅行に行ってきました。
「おいで、みんなここへ」を作詞した考古学者の佐古和枝さんに誘われて、妻木晩田弥生塾の修学旅行(釜山〜慶州)に参加しました。その前後、ソウルと清州へも。
7泊の長い旅だったのに、何故かいつも時間に追われて、睡眠不足の慌ただしい旅になってしまいました。旅の間、daum cafeのニョンヨさんやケピーさん、チェウギさんがずっとサポートしてくださり、とても助かりました。どうもありがとう。
3月16日(火)夕方、仁川到着。バスで市内に行くつもりだったのに、チェウギさんの車で一緒にニョンニョさん、バスで追いかけるようにケピーさんまで空港に迎えにきてくれました。感謝、感謝です。
そのままソガン大学で開かれたホンセホァ氏の「韓国で暮らすということ」という講演を聞きに。前の晩徹夜だったため、半分意識を失った状態で講演を聞いていたので(私の韓国語の能力も相俟って)何が何やらよくわからないまま、いつの間にか講演は終わっていました。それでも印象に残ったのは、ホンセホァ氏のお話しの上手さもさることながら、講演参加者の積極性と達弁。質問コーナーでは、大学生からお年寄りまで、まるで授業参観の時の小学生のように(失礼!)あちこちでハイハイ手は上がるわ、しゃべり出したら止まらないわ、で、日本での講演会の雰囲気とは随分違うなぁ、と思いました。
数日前の大統領弾劾の影響もあって、熱気のある講演会でしたが、ホンセホァ氏の話しの中心は、「社会が成熟するためには、ひとりひとりの意識を高めなければいけない」ということだったような気がするんですが、う〜む、じゃあ、そのためには具体的に私はどんな方法で何をすればいいのだろう?と考えながら帰ってきました。
講演終了後、韓国の芸能界で仕事をしている甥フィーファンと合流して、みんなで夕ごはんを食べました。この日のメインはキムチサムギョプサル。熟したキムチと豚の三枚肉。ウ〜ン、韓国の豚肉はほんとにおいしい。
高校生の時からモデルの仕事をしてきた甥は、去年の春に韓国の芸能事務所にスカウトされて仕事をしています。去年1年間は海外同胞のための語学学校にも通い、新鮮で楽しいソウルでの生活を過ごしていたようですが、時間が経つにつれ、日本と韓国の文化や風習の違い、芸能界の仕事の大変さに、少しずつストレスもたまってきているようです。それでも、やさしい顔に似合わず、根性のある甥を見ていて、頼もしい青年に成長したなぁと、おばさんの私としては、少しうれしい気持ちになりました。フィーファン、がんばれ!
甥やみんなと別れて、1月からお世話になっている仁寺堂の「ウリチプ」へ。久しぶりに「ウリチプ」のお母さん朴仁淑さんと再会。いつも旅に出るとホテルの部屋ではなかなか眠れないのに、古い韓国家屋を改築したゲストハウスのこの家では、安心してぐっすり眠ることができます。伝統的な韓国家屋は、部屋の間取り、広さ、中庭の土に至るまで、人間が安らげる空間を綿密に計算して建てられていると聞きました。なるほど、それでいつも我が家に帰ったように、くつろげるんだね。この晩も、朝までぐっすり眠ることができました。


3月17日 (水)  韓国(ソウル、清州、釜山、慶州)の旅2

17日(水)2月のはじめ、ソウルの日本文化院でのコンサートを終えて日本に帰ってくる朝、コーヒーショップで読んだ新聞に、トジョンファンさんが病気療養のため教職を退職されたという記事が載っていました。日本に戻ってからすぐに電話をかけてみたのですが、電話は通じませんでした。たぶんお見舞いの電話が殺到して、受け取ることができなかったのでしょう。今回韓国に行く前に連絡が取れて、忠清北道の清州から山の方に1時間ばかり入ったところにある、トジョンファンさんが療養してらっしゃる家にお見舞いに行きました。
この日もチェウギさんがわざわざ仕事を休んで、愛車の四輪駆動車で私を案内してくれました。デコボコの山道をのぼって、車を止めて細い道を数分歩いて下って行くと、トジョンファンさんが家の前に出て私たちを待っていてくれました。
友人がここで療養するように、と提供してくれたという家は、とてもすばらしいものでした。大きな岩の上に建てられた黄土の家は、見渡すかぎりの自然に囲まれています。美しい彫刻を施した木のドアを開けると、広々としたリビングでは、暖炉の中でクヌギの木が暖かい、優しい炎をたたえて燃えています。3月中旬にしてはめずらしく冷え込んだこの日、寒さで縮こまっていた私たちの身体も心も、家の中に入るなりポカポカと温まってくるような気がしました。
2年ほど前から、過労とストレスのため自律神経を病んでいらしたトジョンファンさんは、この家で毎朝気の鍛錬と瞑想をしながらゆっくり過ごしてるうちに、病気は少しずつ
よくなってきたそうです。
庭から採ってきたくるみや果物、蓮の花のお茶、畑で採れたお芋を薪にくべて焼いてくれたものをいただきました。自然のご馳走をいただきながら、とりとめのない話しをしているうちに、時間が経つのも忘れてしまいました。
次の予定があるのを忘れてすっかり長居をしてしまった私たちは、後ろ髪を引かれながら、再会を約束して家を後にしました。トジョンファンさんは、私たちが見えなくなるまで、ずっと手を振って見送ってくれました。
帰りがけに、彼が話してくれた奥様の共同墓地のそばに車を止めて、シルボン(臼の峰)をさがしました。道ばたに咲いているなでしこの花を手折って奥様の墓地に墓参りに行く道すがら、本当に彼女の魂がシルボンを越えて自分に会いにくるような気がした、という話しが深く印象に残っています。

「あなたの墓のそばに」詩:トジョンファン、曲:李政美

 あなたの墓のそばに なでしこの花供えてくれば
 あなたは雲となり シルボンを越えて 私についてくる

 あなたの墓の前に 弔いの火を焚いてくれば
 あなたは宵闇の 星となり 私についてくる

 あなたの墓のそばに 歌をひとつ残してくれば
 あなたは草むらの虫の音となり 戸口(いえ)までついてくる

 あなたの墓の上に 涙一粒こぼしてくれば
 あなたは降りそそぐ雨となり 肌にしみ通ってくる


清州からソウルに向かう途中、大渋滞に巻き込まれ、3時間もかかってヨウィドに到着。実の姉のように慕っている作家の朴慶南(パクキョンナム)さんたちとの約束の時間に30分も遅れてしまいました。キョンナムさんは、国会議員の金希宣さんを応援する会の人たちに誘われて、この日から2泊3日の予定でソウルに来ていました。金希宣さんとの会食に是非一緒に、ということで、私も一緒に会食に参加させてもらいました。大統領の弾劾のニュースで度々テレビ画面にも登場(係員?に引きずられていくおばさん議員)した金希宣議員は、予想通り、とてもパワフルでステキな女性でした。
会食の後、キョンナムさんと仁寺堂に移動して、この日のお昼にソウル入りした神宮寺(毎度お世話になっている松本のお寺)のスタッフみさこちゃんと合流。キョンナムさんとの始めてのソウルの夜を満喫したのでした。

写真1、2 とじょんふぁんさんと
3 シルボンを背景に

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3月18日 (木)  ナヌムの家を訪問

3月18日(木)
ナヌムの家を訪問。ニョンニョさんの友人で、金浦の小さな教会の牧師さんチェホビョンさんとそのご婦人が、わざわざ車でナヌムの家まで案内してくれました。
ナヌムの家には、去年の4月に初めて訪れ、5月のオボイナル(父母の日)に矢野さんと一緒に訪れて歌い、今回は3回目の訪問になります。昨年の7月のソウル公演の時は、バスに乗ってみんなでコンサートを観にきてくれました。

最初の訪問の時、お茶と和菓子を持っていったのですが、職員の方に「おみやげは、できればひとりにひとつずつ」と言われてしょんぼり。次の訪問の時は、ハンカチを人数分持っていったのですが、「あっちの模様の方がきれい」と言われしょんぼり。今回こそは、と思って小さな小銭入れをおみやげに持って行ったのですが、数がそろわず、やっぱり「あっちの方が・・・」と言われ、またまたしょんぼり。次回は絶対失敗しないようにしよう。

現在、ナヌムの家には9人のおばあさんたちが暮らしています(私は、亡くなった母と同じくらいの年齢の彼女たちをいつもオモニと呼んでいます)。
年々高齢化が進み、あちこち身体の具合が悪くなる方も多いようです。去年はお元気だったひとりのおばあさんは、体調を崩して入院中に病院の看護ミスで足に低温火傷を負い、24時間看護が必要になってしまったため、そのままナヌムの家には戻れなくなってしまったそうです。
医療看護設備の整った施設を併設するために、ナヌムの家の隣に敷地は購入したものの、資金が無く、施設を建てる見通しはまったくたたないそうです。
日本で、施設建設のための支援コンサートを年内にできたら、と思っています。

事務所で職員の方と話していたら、イヨンスさんが入ってこられてびっくり。イヨンスさんは、数年前にナヌムの家を出られ、今はテグ(大邱)に住んでらっしゃいます。6年前に私の住んでる葛飾の町に講演をしにいらした時に初めてお会いして、その後、私が講師を務めていた南葛飾高校にも、生徒たちに話しをしに来てくれました。
講演会の打ち上げで、「将来弁護士の資格を取って、法律の専門家として従軍慰安婦問題を解決したい」とおっしゃっていた言葉が深く印象に残っています。

5時からの夕食を一緒にご馳走になって(蠣とほやのお刺身、おいしかった!)、史料館を駆け足で見学して、きっとまた遊びにきますとみなさんに約束して、ナヌムの家を後にしました。

従軍慰安婦問題は、韓国人にとっても、日本人にとっても、暗く深い傷痕として残っています。
数年前の東京でのコンサートの時に、「あなたの歌が好きだったのに、ステージからカミソリを投げつけるなら、僕は日本刀で切り返す」というアンケートが返ってきました。従軍慰安婦をテーマにした、ハンドルさんの「トラジの花」を歌ったことに反応した言葉です。
「トラジの花」を歌う私や、聴くあなたの「痛み」がいったいどれくらいのものだろう。戦争によって直接傷ついた人たちの痛みを、どんなに想像力を働かせても、同じように痛むことはできないかもしれない。
でも、あなたは私だったかもしれない、という感覚を失わないために、またオモニたちに会いに行きたいと思います。

写真(ちょっと大きすぎ。ごめんなさい)
左から、神宮寺のみさちゃん、コムンゴの天才少年ジョンゴニ、ホビョンさん、そのご婦人(名前を失念、ごめんなさい)

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3月26日 (金)  大阪・布施 サランバン ミニコンサート

前日の米子市大山町でのトーク&コンサート(一人でした)を終えて、朝8時過ぎのバスに乗って、大阪に向かう。
夜のライブの前に、もうひとつ大切なコンサート。大阪のファン、ヨルチャさんとチャンジャさんがお手伝いしている、在日のオモニたちのたまり場?サランバンに、以前から大阪に寄った折りに必ず来て欲しいと言われていた。サランバンは、在日一世のオモニたちが毎日集い、文字の勉強をしたり、お昼ごはんを食べたり、花札をしたり、世間話をしたりする憩いの場だ。
お昼過ぎに大阪に到着し、きみえさん、にっしゃんの案内でサランバンに到着。お昼ごはんを終えたオモニたちは、コンサートが始まるのを心待ちにしていてくれた。
前日大阪方面で仕事を終えた矢野さんも応援に来てくれて、コンサート開始。知らない歌ばかりで、オモニたちあきるかなぁ、と心配しながら、「京成線」をうたう。うたいはじめた途端、何故だか涙があふれてきて止まらなくなってしまった。オモニたちの顔を見ながら、自分の母のことを思い出してしまったからだ。
私の母は、私が18歳の時に54歳の若さで亡くなった。今生きていれば、サランバンのオモニたちと同じくらいの年齢だ。在日の女たちは、学校へ通いたくても通うことができなかった人たちが多い。私の母も、一度も学校に通ったことがない。家業のバタ屋をひとりで切り盛りしながら、7人の子どもを育て、自分のためにお金も時間も使うことがないまま亡くなってしまった。もし今母が生きていたら、サランバンに集うオモニたちのように、文字の勉強をしたり、おしゃれをしたり、気の合う仲間と楽しくおしゃべりをしたり、そんな風に楽しく過ごせたかもしれない。
気を取り直して、「私と小鳥とすずと」を手話(というよりお遊戯ですね)をしながら歌う。それ以降、オモニたちは私の手振りをそのままマネして一緒に歌ってくれる。みんなの顔が輝いていて、私の心もどんどん明るくなっていくようだ。
「木浦の涙」、「サランヘ」、「ミリャンアリラン」もみんなで一緒に、「オギヤディヤ」は船を漕ぐオーバーアクション付きで大合唱。
こんなに盛り上がるとは...
最後に最年長(94歳)のオモニに「いつまでもお元気で...」と花束をいただいた時は、腰が抜けそうになった。
コンサート終了後、サランバン定例の「今月のお誕生会」。丸いデコレーションケーキが五つ。均等に切るために、ナイフを持つスタッフの手が緊張でふるえる(不公平に切るとオモニたちのリアクションが恐いからね)。私もオモニたちに混ざって、ケーキとお茶をご馳走になる。
午後3時。そろそろ夜のシュガーベイブでのライブのために移動しなければいけない。お別れに「イマココニイルヨ」をみんなで歌ってサランバンを後にする。オモニたちに、またきっと遊びにくることを約束して。

東京に帰ってきてから、チャンジャさんから届いたメールです。

私とヨルチャの夢だったんです。
いつか、ちょんみさんに、サランバンでうたってもらうことが。
こんなに早く実現するとは思いもよりませんでした。

シュガーベイブの「京成線」は今まで聴いた事もないくらい素晴らしかったけれど
さらんばんの「京成線」の歌の重さは
イルボンサランの私は語れないと思いました。

今日もさらんばんでハルモニが
「あの曲聴いて、ほんとにアボヂが見えてん。
 私、気いおかしなったかと思ったわ」といいながら、涙を流していました。

スタッフのキムヤンスン(一番若い子です)と言ってたのですが
26日のコンサートハルモニbest3

1、(これはちょんみさんも御存じ)
  最年長(94歳)のハルモニのちょんみさんに対する言葉
  『いつまでも・・いつまでも・・お元気で・・・頑張って!!』

2、『すずと。。』で手話した後、他の曲でも
  大半のハルモニがちょんみさんの一挙一動をずっと真似し続けて
  ちょんみさんが、胸に手をおけば、みんな手をおく・・

3、女帝「イ コリョン」さん(ちょんみさんと煙友してたマダム)が
  「イヂョンミさんに、服買ってあげやなあかんね・・
   シャツがのびとった」
   
チャンジャさん、ヨルチャさん、大阪のファンのみなさん、どうもありがとう!

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